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カリブ海南端に浮かぶ豆粒のような島−アルバ島 2009年03月

ポルトガル共和国 最南端のリゾート地 アルガルヴェ地方 2008年09月
2010年冬季オリンピック開催地 BC州 ウィスラー&ブラッコム 2008年03月

BC州 カナディアン・ロッキー山岳地帯 2006年11月

訪日ルポ - 京都・嵐山 「美空ひばり館」
訪日ルポ -  群馬県・太田市 「ぐんま国際アカデミー」
訪日ルポ -  鹿児島県知覧町 「知覧特攻平和会館」

NYの「イサム・ノグチ庭園美術館」

世界の街 <人権先進国カナダ、その中心の街 トロント>
街をあげてシニア誘致に力を入れるエリオット・レイク(オンタリオ州)

日本人美術家によって再建されたフランス・ノルマンディー地方 「林檎の礼拝堂」

訪日ルポ - 年を取ったら「誰」と「何処」に住む?

キューバあれこれ

2008年オリンピック開催を狙うトロント
アンのふるさと
トロント日系文化会館
夏のトロントにいらっしゃいませんか!

オーロラの見える街
文化二都物語 「アンの島に橋が掛かって」



カリブ海南端に浮かぶ豆粒のような島−アルバ島


さんご礁の島
 北米に住む者でも、この島が何処に位置するかを正確に言い当てられる人は少ない。西インド諸島の南端部、南米ベネズエラの北の沖合い25km 、総面積193平方kmという豆粒のように小さいオランダ領の島である。

全体が起伏の少ないさんご礁から出来ており、一年の平均気温は27,8℃と安定している。しかし降雨量は年間500mm前後という気候のため、乾燥した砂漠地帯が多く、サボテンの群生がいたるところに見られる。

島の主要産業はツーリズム。クリスマス前後から春にかけてが、避寒客で一番賑わう季節で、仕事をしている人は1,2週間、リタイアしたシニアなどは2、3ヶ月余りも滞在する。主にアメリカの北東部などから来る人が多く、カナダやヨーロッパがそれに続く。

冬場に、燦燦と降りそそぐ陽を浴び、紺碧のカリブ海を眺めながら、キラキラと光る白い砂浜を素足で歩く楽しみは、雪の多い極寒の北国から来た者には何にも増しての喜びである。

しかし昨秋辺りからアメリカの景気の落ち込みが影響し、観光業の先行きを危ぶむ人は多い。大幅な値下げをしたりサービスの向上を図っているが、ツーリストの足はかなり遠のいているようで、この冬は「いつもの活気がまったくない」と関係者は嘆く。

島の主要産業の衰退を思えば気の毒だが、客側はざわつきの少ない落ち着いた雰囲気が何よりである。

オランダの自治領
島の歴史は千年ほどもさかのぼると言うが、近年ではスペイン、オランダ、イギリスなどの支配を受けた後、1816年に再びオランダの殖民地に戻り、1986年に当国の自治領となって今に至っている。
ダウンタウンの建物を見ると、オランダ独特の建築様式の影響を垣間見ることが出来る。

先住民はアラワク部族のインディアンで、ベネズエラから移り住んでおり、彼らが洞窟に残した絵文字のような物は観光巡りのハイライトの一つだ。

金鉱が栄えた一時期もあったようだが、今は廃鉱が幾つか残されているのみだ。とは言え、その頃に培った名声が衰えないためか、繁華街には宝飾類を売る店が軒を連ねており、豪華客船の入港のたびに賑わいを増す。

島民は英語を中心にオランダ語、スペイン語、ポルトガル語などを話す人が多く、加えて、それらが混ざって出来上がったと言う現地語ハピアメント語も操る。

かくのごとくの混成と共存は人種にも及び、白人、黒人に加え、先住民のアラクワ族の血を引く混血も多く、時には振り返るほどエキゾチックな顔立ちの島民に出会う。

世界的な経済恐慌はこんな小さな島をも脅かしているが、自然の恵みにつつまれた島は今日もたおやかな一日を終え、太陽は大空を茜色に染めながらカリブ海の向こうにゆっくりと沈んでいく。


ゆきのまち通信 2009年03月号
(旅をしたのは1月上旬)

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ポルトガル共和国 最南端のリゾート地 アルガルヴェ地方


航海時代の先駆者
西ヨーロッパのイベリア半島にあるポルトガル共和国は、ユーラシア大陸の最西端に位置する。
かつては、ヨーロッパ主導の大航海時代の先駆者となって、東アジア、中国などを訪れ、日本にも最初に接触を持った国である。

歴史をさかのぼると、1500年半ばに種子島に漂着したことで鉄砲が伝えられ、南蛮貿易が開始されたと言われる。
以後フランシスコ・ザビエルがキリスト教を布教し、今はすっかりお馴染みのカステラ、金平糖もポルトガルからの伝来品で、日本人には馴染みの深い国である。

この海上発展の基礎を築いたのは、航海王子と呼ばれるエンリケ王子(1394-1460年)。自身は冒険の経験はないものの、航海学校を興し、後継者を育てることに一生を捧げた。

その業績を称える銅像や記念碑は、この南部のリゾート地・アルガルヴェ地方に多い。
一帯には、かつての栄光の日々を垣間見る建物や城壁などがきれいに保存されており、最西南端のサン・ヴィンセンテ岬のサグレブと呼ばれる所には、王子の航海学校を中心とした村の建設跡地がある。

国際的リゾート地
だが今この地域は、一年中惜しみなく降り注ぐ太陽を求めて、世界中から集まる人々の国際的なリゾート地となっている。
特に冬場は、太陽の恵みの少ない北・東ヨーロッパや、カナダなどからの観光客で賑わう。

ポルトガルは1986年にECに加盟し、99年にはユーロを導入して、列強の国々と肩を並べる経済国になった。国によって貨幣が変わった時代と比べ真に便利で、こうした観光地がもたらす経済的なインパクトは計り知れない。

スペインの国境に近いファロという街にはポルトガル第二の空港があり、アルガルヴェ地方に行く人々はここを利用する。
空港は小規模だが、ひとたび高速道路に乗り入れれば、整備されたハイウェイーが続きリゾート地へといざなう。

遠くの山頂には、そこここで風力発電用の大きなプロペラがうなり、地球温暖化防止に力を入れるEUの前向きな姿勢の一端を目にする。

素朴なポルトガル
煩雑な日常から開放され、ひと時の休暇を楽しむツーリストの多い海岸沿いは、国際色豊かだが、ちょっと奥地に入ればこの土地で素朴に暮す市井の人々の生活が垣間見られる。

サファリジープを屈指して近郊のモンチケ山(902m)に登る道すがらでは、日焼けした農婦がロバにまたがってでこぼこの山道を行きかう姿に出会ったりする。

また山頂にある蜂蜜栽培農家や、国の輸出産業に大きく貢献するコルクの木々を育てる農園には、節くれた手で黙々と作業する男たちが、はにかみながらも満面の笑みで迎えてくれる。

そうした素朴さこそがポルトガルのイメージである事を思うと、異国人の勝手な願いとは知りつつ、経済優位の済まし顔の国にはなっては欲しくないと心密に思うのである。


ゆきのまち通信 2008年09月号
(旅をしたのは2月下旬)

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2010年冬季オリンピック開催地 BC州ウィスラー&ブラッコム


冬季オリンピックの夢実現
2010年・冬季オリンピックの開催地は、北米で一番スキースロープが長いと言うBC州ウィルラー・ブラッコムである。
バンクーバーと共に、2年後に迫る行事に向けて、今準備が急ピッチで進められている。

1960年代から始まったリゾート開発は、もともと68年の冬季オリンピックを目論んだもの。
その後何度も立候補し、約40年後に夢がかなうことになった。

長い年月の間に築き上げた施設は、世界のどのリゾート地と比べても引けを取らない。
国際オリンピック委員会も、イベントの開催地としての施設の充実度と、立地条件のよさを挙げた。

万人向けに工夫
この地が特にユニークなのは、雄大な二つの山、ウィスラー山(2182m)とブラッコム山(2284m)が渓谷を挟んで並び立ち、合わせて8100エーカーものスキー場を持っていることだろう。

年間平均降雪量は10mほど。パウダースキーも申し分なく、また気温は12月から2月に掛けて−3℃〜−8℃と、スキー場としては理想的ものである。

「ウィスラー・ブラッコムで滑らずしてスキーヤーと言うなかれ」と言われるほどで、当地の虜になってしまったスキー・スノーボーダーが、高じてインストラクターになってしまった例も多い。
そのため、この方面の学校は、世界有数の質の高さを誇っている。

大人から子供まで、どのレベルの人にも適応できるプログラムが目白押しである。
スキー・スノーボードは言に及ばず、フライト・バックカントリー・スキー、スノーシュー、犬・馬ゾリ、スノーキャット、アイスクライミング、モーグルなどなど。

もちろん、夏のレジャーも盛りだくさん。身障者向け設備も充実しており万人が楽しめる。

雪崩による事故
どんなスポーツも上達するほどに、冒険心が湧くのは当然だろう。

だが中には危険地域を知ってか、知らずか立ち入って、雪崩の事故に合う例も後を絶たない。
今年も元旦のウィスラーで、29歳の男性の若い命が奪われた。「捜索にヘリコプターを出す手間や費用、加えて家族の心配を考えたら冒険に命を掛けるのは無意味」と関係者は言う。

また中には外国からの人が、英語のサインが読めず危険区域に入ってしまう例も少なくないと聞く。
日本からは飛行機でバンクーバーまで8時間。バスで2時間半北上という手軽さが受け、毎年訪れる人も多い。くれぐれも危険のないよう楽しい滞在をして欲しい。


ゆきのまち通信 2008年03月号

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BC州 カナディアン・ロッキー山岳地帯


世界遺産
カナデイアン・ロッキー山脈国立公園群は、カナダにある幾つかの世界遺産の一つで、1984年に登録された。
ここは4つの国立公園(ジャスパー、バンフ、ヨーホー、クートニー)から成り立っており、カナダの西側の2つの州、ブリティッシュ・コロンビア州とアルバータ州の境に位置している。
この山脈群は遙かアメリカ南部まで連なり、5000キロメートル近い長さを持つ。

カナディアン・ロッキー一体は3千〜4千メートルに近い山々が聳え立ち、最高峰は富士山より高い3,954mのロブソンマウンテンである。
この雄大な連峰の成り立ちは遠く中世代末期にさかのぼる。
隆起や断層を繰り替えしたあと一度平原になったが、第3世紀末期に再度大規模な造山運動が起こり、山脈や深い谷、高原や湖ができ、複雑な火山地形や氷河地形が生まれたという。
カナダの観光地の中では、比較的日本に近いため、夏場を中心に多くの日本人観光客も訪れる。

リピーター観光客
場所によって異なる山河の趣や、雄大で迫力ある自然に抱かれた美しい景観はどんな言葉を持っても言い尽くせない。

そんな魅力の虜になってしまったリピーターたちも多く、本格的な山登りはもちろん、ヘリコプターで山の中腹まで行きトレッキングやハイキングを楽しむ人たちはその魅力をこもごも語る。
主要なアクセスはヴァンクーヴァー、カルガリー、エドモントンなどからである。当地を代表する街はバンフやジャスパーが中心で、双方共標高1500メートル辺りに位置する。

ユネスコ世界遺産の厳しいチェックのもと、自然保護には特別に注意が払われているため、近郊にある炭鉱などの開発は思うようにならない。経済発展か環境保護かの問題は常に議論の対象になる。
また主要観光スポットの一つであるグレーシャー氷原は、地球温暖化の影響で以前に比べ大きく後退しており、今後の成り行きが心配されている。
ゴルファー天国
またここはゴルフファンのメッカで、あまたある国内のゴルフ場の中でもバンフ・スプリングス・ゴルフコースは、そのグリーンが一際美しい。
世界的に有名なゴルフコース・デザイナーであるスタンレー・トムソンの設計。創設は1920年代だが、90年代初頭には大規模に修復され威容を誇っている。

コースに出る前にはホテル側から歓迎の挨拶と共に、必ず野生動物に出会った場合の注意を受ける。
ヒグマ、狼、コヨーテまたは大鷲などが見え隠れすることも珍しくないからだ。

しかし夏場でさえ透明に澄んだ山あいの冷気を肌に感じながら、聳え立つ山々を背にクラブを振れば、「ゴルフ冥利に尽きる」とプレヤーたちは目を細める。


ゆきのまち通信 2006年11月号




訪日ルポ -  京都・嵐山 美空ひばり館


ひばりファンが建設
美空ひばりという歌手自身を、あるいは、彼女の数ある歌を好きか嫌いかは別としても、日本で生まれ育った者ならこの人の名前を知らない人はいないだろう。
彼女は幼女期の7,8歳の頃からすでに歌い手としての才能を発揮したが、芸名の「美空ひばり」を名乗るようになった11歳から数え、40数年に渡り日本の歌謡界、映画界に君臨した歌手である。

平成元年(1989年)6月に病で倒れ、病没するまで歌い続けた国民的歌手を称え、京都・嵐山に建設されたのが「美空ひばり館」で、今年は没後16年目にあたる。
観光スポットの多い京都の中でも、嵐山と呼ばれる地域は際立って名所旧跡の多い所だ。この辺りのシンボルである渡月橋へは歩いて3.4分ということもあり、周辺散策の行き帰りに訪れる人は引きもきらない。(京福線終点嵐山駅には「脚浸し温泉」もあり観光客の人気を集めている)

当館の設立者は生前のひばりの大ファンだった人とのことで、その功績や歩んできた道のりを後世に残そうと、平成13年4月に資本金1000万円を投じて建設した。
よほど好きな歌手だったと見えるが、その辺りの事情を知らないと、広い館内の展示物の説明に敬語が使われていることに、来館者は違和感を覚えるに違いない。

まずエントランスホールと呼ばれる1階入り口を入った途端に、歌手の手形や等身大のブロンズ像、舞台で歌う姿の大きなパネル写真が飾られており、それはそれはキラキラと賑やかで、生前の彼女の華やかな芸能生活を、いやが上にも感じることが出来る空間である。

歌に、映画に、、、、、
そこからエレベーターに乗ってたどり着くのは3階で、ここには「ひばりシアター」、「ガイダンスホール」、「ひばり歌謡史」、「映画名場面」、「ひばりワールド」などのコーナーがある。

「ガイダンスホール」では、美空ひばりが座右の名としていたという「生まれし時この道しらずとも、この道を歩み幾歳月ぞ、今日涙して明日また笑おうぞ」と書いた直筆の色紙が織り込まれた豪華な屏風や、生前に授与された数々の表彰状が展示されている。

この中には、亡くなった翌月に受賞したレコード大賞を始め、特別栄誉歌手賞、また女性で初めて与えられたという国民栄誉賞の賞状も飾られている。
これは当時の宇野宗佑首相のサイン入りで「あなたは戦後の歌謡界にあって、真摯な精進を重ね、多くの歌謡曲によって人生の哀歓を歌いあげ、歌謡界の発展に著しく貢献されると共に〜」といった言葉が記されている。

また「ひばりシアター」では、ワイドスクリーンに映し出される東京ドームでの再起コンサートの模様が10分ほど繰り返し上映され、往時を偲べるようになっている。
続く「映画名場面」では、主演した映画「悲しき口笛」「東京キッド」「伊豆の踊り子」といった多くの映画と共に、相手役の高倉健、大川橋蔵、中村錦之助、鶴田浩二などなど、今の若い人には馴染みのない名前だろうが、当時二枚目と呼ばれた俳優たちとの名場面が所狭しと飾られている。

「ひばり歌謡史」では、昭和20年(1945)代〜60年(85年)代までに残した数々のヒット曲を映像と共に観覧できるコーナーで、自分の好きな曲を選曲して楽しむことも可能で、美空ひばりの歌や人となりが好きなファンが、心行くまで堪能できるディスプレーが、余すとこなく展示されている。

ちなみに一番ヒットした曲は「柔」(昭和40年)で180万枚を売り、次に「悲しき酒」、「真っ赤な太陽」が続くという。

私生活
もちろん彼女はその名の通り、歌手としての才能と運に恵まれた人ではあったろう。だが衰退の激しい歌謡界で40数年に渡り不動の地位を維持したには、やはりたゆまぬ努力や精進があってのことと思われる。それによって得た名誉、栄誉、そして富であった事は疑う余地がない。

しかし私生活では紆余曲折の人生であったようだ。結婚は、当時歌手でアクション俳優だった小林旭としたが長くは続かず、加えて2人の弟も若くして亡くしている。

また彼女を語るとき避けては通れない人物が、ステージママとして君臨した母親の存在である。世間では「二卵性ソーセージ」とまで言われたようだが、その影の力があってこその活躍で、その結果、映画出演本数158本、シングル527曲、総曲数1035曲もの作品を残すことが出来たのだろう。

2階に降りると、そこは「ひばりアトリエ・リビング」、「ひばりコレクション」、「ひばり衣装」、「ひばり劇場」といったコーナーが見学でき、彼女の仕事に色濃く反映した私生活の一面を見ることが出来る展示場である。

興味を引くのは梅田コマ劇場の楽屋や、東京目黒区青葉台の自宅リビングルームを再現したものだが、幼い少女趣味が隅々に感じられ、成熟した女性の雰囲気は伝わってこない。
芸能界というある意味ひどく大人であることを要求される世界と、その世界しか知らないがために育つことがない、人間としての成熟度のちぐはぐさが見て取れて興味深い。

ここにはまた、舞台を華やかに彩る和服やドレスの舞台衣装の展示も何点かあるが、その余りの小ささに驚きを禁じ得ない。身長150センチ、足の大きさは21.5という小柄な人だったという。
「えっ、そんなに小さかったの!舞台では大きく感じられたわね」という見学者たちの会話が耳に入るが、大きく感じさせたのは舞台人としての彼女の才能の一部であったのだろうか。

一通り見終えてたどり着くのは地下にある「ひばり小劇場」と「記念販売コーナー」だが、ここに置かれた訪館記念ノートには、“大ファン”と自称する人々の思いの丈が綴られている。
曰く「伝説のアイドル、否、ヒーローに万歳!」「生前の舞台で感じた感激を再度体感できて幸福の絶頂です」「テレビで見るより偉大で、素敵な人でした。もし生きていたらもっと生の歌が聴けたのに残念です」などの感激の文章が並ぶ。

没して16年。今なお人々の間で生き続ける「美空ひばり」という歌手は、やはり国民栄誉賞に書かれているように「〜歌謡曲によって人生の哀歓を歌いあげ、歌謡界の発展に著しく貢献された〜」歌手であったことに間違いはなさそうだ。


日加タイムス 2005年12月8日




訪日ルポ -  群馬県・太田市 ぐんま国際アカデミー


日本で初のイングリッシュ・イマージョン・スクール開校
カナダに住んでいる我々には「フレンチ・イマージョン・スクール」と言う言葉は聞き慣れている。日本からの移住者の中にも、現在この教育制度を利用し子供を学校に通わせている人は多いことだろう。

カナダの学校教育は各州の教育省の管轄にあるため、州やまた地域によってその教育方針は異なる。オンタリオ州の場合、一般的に言って「フレンチ・イマージョン修了書」を得るには、高校卒業までに合計5000時間ほどをフランス語で受講することを要求される。
公用語が英仏の2言語のカナダにおいては、仏語習得は単に言語を理解するのみにとどまらず、仏系住民の理解にもつながるものである。
ちなみに、2001年度の国勢調査では、カナダ人の85%が英語を、31%が仏語を話し、また17.7%が英仏両語を話せるという報告がなされた。バイリンガル率は6人に一人の割合となる。

この教育プログラムの創設は1965年で、母語または家庭内言語が英語の学童を対照に仏語で学校教育をすることから始まった。すでに40年の歴史を持ち、今日では30万人以上の生徒たちがこのプログラムを享受している。
カナダで最初に開発されたこの教育制度の構想は、今ではオーストラリア、アメリカ、ハンガリーなどを始めとする多くの国々で実施されている。

それぞれの国において試行錯誤はあるものの、ユニークな教育システムとして根付いており、その構想が今年日本においても実施されるようになった。
すでに英語教育に特別に力を入れた教育を行っている学校は幾つかあるが、文部科学省が正式に承認したイングリッシュ・イマージョン校は、この群馬県太田市にある私立群馬国際アカデミー校が初めてである。
東京の浅草から東武伊勢崎線の特急で1時間半ほどの所にある当校は、多くの教育関係者やメディアの注目する中で今年4月に開校された。

設立の経緯
日本ではまだ聞きなれないイングリッシュ・イマージョンと言う言葉だが、この学校は平成14年6月に小泉内閣の構造改革特区実施の閣議決定を受け、群馬県太田市が構想書をまとめ、「英語特別教育区」に認定されたことから始まった。だがそのための特別な資金援助は国から得ることはできない。

4月の開校では、まず小学校一年生107人、4年生59人(女男生徒の割合は6:4)が入学し、イギリス、アメリカ、カナダ、フィージーなどから招聘された英語のネイティブ・スピーカーの先生7人と、日本人6人の先生、スタッフによって運営が開始された。
将来は小、中、高の一貫した教育を行うことを目指しており、3年後の平成20年に中学校、平成23年に高校を開校する計画で、8年後には全生徒数1300人ほどになることを予測している。

生徒の中には外国生活経験者も多少いるが、ほとんどは英語とは余り関係ない子供たちである。
そのため初等部に入学予定の子供達には、プレスクールと呼ぶプログラムも用意されている。これは英語によるイマージョン教育に出来るだけ早く慣れるために、英語の基礎を身につけて英語に親しむための英語教室である。
生徒の出身地は半分が地元太田市から、残りは市以外の地域からの入学者である。

ユニークな学校と言うことで、教育のために父親を都市部に残し、子供と母親が当市に移住して入学させた例も珍しくないという。
当校の教育理念は、「日々変化を遂げる国際社会の中でリーダーとして必要な能力と知識を備え、国際人の育成に努める」というものだ。周知の通り、英語が話せれば国際人という簡単な図式は成り立たないながら、意志の疎通のためには、完全な言語の習得が欠かせないことに注目されての教育理念と思われる。

アジアの国々の中でも英会話に関しては日本人が一番遅れているとも言われている。その結果が雨後の竹の子のように増え続ける英会話学校の乱立だが、その割には日本人の英会話力が上がってはいない。
そうした日本人のジレンマが当校の開校につながったと思われるものの、小学校から授業のほとんどを英語で行う教育システムは、どのようなカリキュラムを組んでいるのだろうか?

カリキュラム
教科全体は日本の普通の小学校と余り変わらず、国語、算数、理科生活科、社会科、家庭科、音楽、図画工作、体育、道徳があり、ここに英語が加味されている。このうち国語と社会は日本語で、また道徳は日英両語で行なわれるが、後はすべて英語のみの教育となる。日本語と英語による指導の割合は67%(英語):33%(日本語)で、また先生一人に対し生徒25人以下の少数授業が組まれている。

現在は算数と理科生活科の教科書は、日本の小学校で使っている文部科学省検定教科書を英語翻訳したものが使用されているが、将来は米英からの教科書の使用も考慮するという。
英語以外に特に力を入れているのは音楽教育で、アメリカの“Eastman School of Music”という大学で開発され画期的な手法、Jump right Inを取り入れて指導している。秋には音楽担当のタード・ローリー教師の指導のもとイタリア語によるオペラの発表もあった。

また当然ながらコンピュータの授業もあるが、これは富士通やNECからの寄付されたもので教室には36台が勢ぞろいしている。
また課外活動には、姉妹都市(インディアナ州ラフィエット市)との交流や海外の家庭にホームステイさせるプログラムも予定されており、広い国際感覚を磨くことを目的にしているようだ。

校長先生のユージン・E・クーパー氏(67)は米国アラバマ州出身。もともとは宇宙工学の修士号、機械工学の博士号を持つ工学博士で、NASAでスペースシアトル開発に係わったり、米国海軍施設においてエネルギーに関する様々な研究、開発のプロジェクトリーダーとして経験を積んだ人である。
「それが何故教育の分野に?」には小学校の先生だった妻、アネットさんの影響が多いと言う。

56歳で軍退職後は第2の人生を歩むために教育者としての準備を始め、カリフォルニア州ルター大学において高等学校理科、数学の教員免許を取得した。その後地元のLAタイムスに栃木県足利工業大学講師募集の求人広告を目にしたことから日本での教育体験が始まった。
97年から6年間足利工業大学にて工学、英語の講義を担当し、それが引き金になり、当校設立のキーパーソンとして招聘されたのである。

現在は単身赴任しており「お一人の生活にご不自由は?」の問いに「日本は何でもあり、レストランもいろいろあって生活が便利ですから」と笑う。
温厚なお人柄とお見受けしたが、訪れた真夏の群馬は38℃という極暑の日々で、筆者も大田駅に降りた途端めまいを感じたほどの蒸し暑さ。さすが「体力には自身がある」というクーパー校長も疲れ気味のご様子で、本国での休暇を心待ちにされていた。

疑問点
日英のバイリンガル教育に限らず、他の言語との同時教育の場合よく言われることは、最初の1,2年は余り進歩が見られないが、やがて教科として指導されると問題なく追いつくということ。多くの研究で実証されている。

だが一方では、自国の言葉をまずしっかりと身に付けさせてからでも第二言語の習得は遅くないという意見も聞かれる。
実際カナダのフレンチ・イマージョンでも指摘されるのは、学習者がプログラムを終了したとき、細かい文法上の誤り、語彙力の低さ、発音の不正確さなどがまま起こり、予想されていたより仏語の能力が高くない生徒がいるという点である。
その理由は、英語圏においては仏語に接する時間が教室の中のみで、また教師以外に日常で正式な仏語に接することが余りなく、実際に仏語を使用する機会が限られるために、乱れた言葉になりがちと言うのである。

もちろんこれは個々の生徒の能力と、彼らを取り巻く諸々の事情が大きく作用することはいうまでもない。
こうしたことが当校の生徒に起こらないことを強く願いたいが、もし何らかの理由で不運にもドロップアオウトした場合には、受験競争の激しい日本の学校に戻って果たして付いて行くことが可能かどうかと言う点である。

まだオープンしたばかりの学校のこと、将来に付いては不確かな点が多くあることは当然といえよう。
また筆者が疑問に思った点は、オープン教室制度の導入である。これは北米において70年代辺りに新しい試みとして奨励され広く取り入れられたものの、子供の集中力が疎外されるとの理由から、80年代には次々に壁を作り本来の教室の形に戻した経緯がある。

すでにその弊害は言われて久しいにも関わらず、何故日本で今この建築様式が取り入れられたのか不思議な気がした。
いずれにしても初めての日英バイリンガル教育が、しっかりとこの地に根付き、モデル校として大きく羽ばたくことを期待している。


日加タイムス 2005年11月18日




訪日ルポ -  鹿児島県知覧町 知覧特攻平和会館


終戦60年
今年は第二次世界大戦が終了して60年という節目の年である。
カナダでは11月11日をメモリアル・デーとしており、戦争で亡くなったすべての人々への哀悼の意を表する日となっている。
日本の場合には、休日ではないものの昭和天皇が終戦布告をした8月15日が記念日で、今年は大事な節目ということでいつにも増して各地での記念式典が多い。

幸運にも第二次世界大戦終了以来、日本はどの国とも戦争をしていないし、どの国の戦争にも加担していない。勿論それは日本の憲法9条「戦争の永久放棄」によるものだが、イラクに自衛隊を送ったことは周知のとおりで、これを違憲とするか否かは今でも世論が大きく分かれている。

また小泉首相は8月15日は避けたものの、10月17日に靖国神社に参拝した。これに対しても世論は賛否両論で、当然ながら中・韓の両国は反発を強めている。
首相自身は「一国民として〜」と弁明するが、アメリカのNYタイムス紙は、「日本が帝国主義的な征服に再び乗り出す懸念はだれも現実には抱いていない」としながらも「こうした挑発は中国が経済の極めて重要なパートナーになり、最大の地政学的な課題にもなりつつある時代には無用のことに思える」と指摘し「無意味な挑発だ」と批判的であった。

特攻基地
今年はそんな記念すべき年に当たり、また私自身が九州を講演旅行をしていた折りと重なったことで、私は鹿児島県の薩摩半島の中ほどに位置する知覧という小さな町に足を延ばした。
ここは知る人ぞ知る「特攻」の基地があった場所である。第二次世界大戦の末期(1945、昭和20)日本の戦局は衰退の一途をたどっていて、戦略物資も底を付いていた。

アメリカが沖縄へ上陸することになったが、その後さらに本土に攻め込むであろう事を予想して、急きょ若い青少年たちを特訓し、肉弾となって敵艦を撃沈するための無謀な作戦が幾度と無く決行されたのである。
飛行機から爆弾を落として攻撃するのではなく「必中必沈」を誓い、1機1機自らが弾となって、操縦する飛行機ごと敵に突入するという作戦。

すでに熟練のパイロットなどはほとんどいない状況で、南の海に散って行った若者たちの多くは、二十歳前後で一番若かった人は17歳と言う。戦争がなかったら入隊などしなかったであろう文科系の学生や民間の操縦士も多かったという。

若い命
この会館に入ってまず息を呑むのは、壁一面隙間なくずらりと並んだ1036名の遺影である。
どの顔もが若く、りりしさよりもあどけなささえ残る表情がなんとも切なく、見学者は涙なしには見据えることが出来ない状況に容易に置かれてしまう。

伴っての展示は日の丸への寄せ書き、能筆な遺書、絶筆、遺詠、、、、、。
家族・友人・知人のことを思いやり、祖国の為に必ず敵艦を撃沈すると誓い、死を目前にしてもなお日本男子として決して弱音は吐かない。短い桜の花の命と、若い自らの命とを重ね合わせ精一杯生き抜いて散華していった様子が見て取れる。

検閲があったことを知っての遺書には、誰も本心は書けなかったと思うが、旧カナ使いが時代を感じさせる文章は「長い間色々と有難ふ御座居ます。只今より征きます。日本男児の本懐であります。必ず御期待に添ひます。親類近所の皆々様に呉々も宜敷くお伝え下さい。ではお元気で」のようにあくまでも礼儀正しい。
しかしこの手紙の奥に潜む、吐露できなかった心根はいかばかりであったかと、思いを馳せずにはいられない。

加えて、多く見られる「天皇陛下万歳」「大君に命をささげて〜」「君が為〜」と言った離世の詠には、今の時代では複雑な思いを禁じえない。
だがこうして若者たちが、国を思い死を覚悟で出撃したものの、実際には敵艦にたどりつく前に撃墜されてしまった機も多く、せっかくの”特攻”の戦果はあまり無かったとも言われている。

すべての物資が不足していた時で、飛行機のエンジン不調など日常のことであったようだ。だがそのために実際に戻って来た操縦士たちは、自分の責任ではないにもかかわらず「仲間とともに出撃して国のために死にたかった」と、後にその辛くてやるせない思いをこもごも語ったという。

遺品や遺書などのほかには、西南の役から太平洋戦争までの各種戦史資料や、日本に1機しか現存しない当時の3式戦闘機「飛燕[ひえん]」も展示されている。

富屋食堂
またここには「特攻の母」として親しまれた、鳥浜トメさんの業績をたたえるコーナーも設けられている。(こことは別の場所で冨屋食堂も見学できる)
この女性は「富屋食堂」という商売を切り盛りするかたわら、飛び立っていく若い隊員らをわが子のように親身になって世話して見送った人である。

すでに他界されたが、当時はまだ40歳の若さで、彼女の気さくな性格と軍指定となった食堂の家庭的な雰囲気が親しまれたという。普段はうどん・そば・どんぶりもの、夏場にはかき氷なども出して繁盛し、戦後の52年(S27年)には遺族を知覧に泊めるために「富屋旅館」も建設した。

トメさんにはまだ10代半ばだった娘さんが2人いたが、どちらもが母親を助けながら隊員の世話をした。その次女に当たる赤羽礼子さんがつい先日(10月16日)76歳で逝去された。
70年(S45年)に新宿で鹿児島料理の店「薩摩おごじょ」を開店したが、これは隊員から母のように慕われていたトメさんに「私は飛んでいった人たちの世話をした。あなたは生き残った人たちの世話をしたら?」と言われたのがきっかけだったそうだ。
元特攻隊員たちが懐かしがって集まり、死んだと思っていた仲間たちがここで偶然に再会し涙しあったこともあったという。

ホタル帰る
礼子さんは、01年にトメさんと隊員の交流を描いた「ホタル帰る」を執筆。ベストセラーとなり「ホタル」という題名で映画化された。
高倉健、田中裕子の主演だったが、実際には「富屋食堂」の意思に反してちょっと左がかった映画になったとも言われている。

それは朝鮮人特攻隊として出撃した光山文博少尉の生き方に、余りに肩入れし過ぎたからのようだが、教育隊からの常連だった彼は、いよいよ出撃が決まった時「俺は朝鮮人だよ」と言って故郷の歌「アリラン」を歌ったそうだ。
また宮川三郎という軍曹は「明日ホタルになって帰って来るよ」と言い残して出撃したが、その夜富屋食堂にいたトメさんと娘たち、出撃前の隊員たちは、確かに一匹のホタルが飛ぶのを見て「同期の桜」を歌い涙を流したという。

死んでいったすべての若者に、それぞれの物語があったに違いないが、そうした話をまとめたのがこの実話小説である。
そんな暗くて不幸な時代があったことを思うにつけ、いま私達が平和に暮らせるのは、彼らの犠牲の上にあることを忘れてはならないとしみじみ思うのである。


日加タイムス 2005年11月4日




イサム・ノグチ庭園美術館(ロング・アイランド、NY)
生誕100年記念巡回展「イサム・ノグチ:彫刻デザイン展」(2004年10月3日迄)


生誕100年
その生き様の多様さがそのまま作品に反映し、石、木、ブロンズなどを素材にした彫刻をはじめ、庭や公園などの設計、家具・陶器・照明などのインテリア、そして舞台芸術にいたるまで、あらゆる方面で才能を発揮した異彩の芸術家イサム・ノグチ。

今年は生誕100年目に当たり、世界各地で多彩な展覧会や講演会などが開催されている。

彼に付随する「世界を彫刻した男」と言う呼称は決して誇張ではなく、生前は世界を駆け巡り、多くの国に幾つもの作品を残している。

その結果、思わぬところで作品に出会い驚かされることがあるが、なかでもNYマンハッタンには、内容の濃いパブリック・アートが盛りだくさんに見られる。

加えてイースト・リバーを隔てた対岸、ロングアイランドには「イサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアム」がある。

生誕100年祭を機にこの夏にリニューアル・オープンされ、ヴィトラ・デザイン・ミュージアム企画による巡回展、「イサム・ノグチ:彫刻デザイン展」が開催されている。

幾つもの石や木の彫刻と共に、今も根強い人気のある「あかり」が列挙され、また舞踏家マーサ・グラハムや、ニューヨーク・シティ・バレーの創立者で振付師、ジョージ・バランシンのステージで使われた舞台道具、普段は余り目にすることのない家具なども観覧できるのは特別展の醍醐味だ。

ここは生前ノグチ自身が仕事場とした所で、常設の作品も鑑賞できる。イースト・リバーを隔てた向こうに広がるマンハッタンの喧騒をよそに、当時の彼の息吹さえ感じられる気がする静謐(せいひつ)な庭園内を巡ると、体の芯から沸々とした力が沸いてくるような不思議な思いにかられる。

大小さまざまな石の彫刻群は、素材から見て冷たいはずだが、じっくりと愛でるほどに、何故かじわりとした暖かさが伝わってくる。

ここでの逸品は、黒い御影石から水が滴り落ちる「蹲(つくばい)(Water Stone)」と呼ばれる作品。

不均衡さが特徴で、彼は「作品はなすがままにして、わざと完璧にしないのです。もし誰かが文句を言ったらこう言ってください。完璧なのは面白みに欠けると」という有名な言葉を残している。


複雑な生い立ち
ノグチは1904年に日米の混血としてアメリカで生を受けた。父は詩人の野口米次郎。1893年に渡米しヨネ・ノグチの名でアメリカの詩壇に英詩を発表し、また雑誌に寄稿するなどの活躍をした人である。

この詩作にあたり英語の添削などを手伝ったのがノグチの母であるレオニー・ギルモアで、大学で文学を学んだ才気ある女性教師だった。

だが米次郎は息子の誕生以前に日本に帰国し、その後2歳のノグチを連れてレオニーは訪日するものの、結婚はおろか子供の認知をすることさえも拒んだ。

レオニーは英語教師をしながら日本で生活しノグチを育てるが、彼が13歳のとき単身渡米させアメリカで教育を受けさせる決心をする。

母の元を離れたノグチは、ここから流転の人生が始まることになる。一時はコロンビア大学の医学部に籍を置いたりもしたが、芸術家として創造の世界に生きる夢は立ちがたく、その後有名無名の多くの人との出会いによって成長し才能を開花していく。

今のような開かれた社会と違い、ノグチは「二重の国籍を持ち、二重の育てられ方をした私にとって安住の地はどこだったのか?」(自伝『ある彫刻家の世界』より)と苦悩し続ける。

戦後になって父親と和解するが、家庭愛に恵まれなかった不幸な生い立ちや、精神的帰属感の狭間に立った紆余曲折の人生は芸術活動に深く投影された。

世界を縦横に駆け巡り、多岐に渡って多くの作品を残したノグチは92年12月30日に88年の生涯を閉じた。

日本人には52年に女優山口淑子と結婚したことでもよく知られている。彼女は戦前李香蘭という中国名で映画界に君臨したが、ノグチと出あった頃にはシャーリー・ヤマグチの名でハリウッドで活躍していた時期である。新居を陶芸家・北大路魯山人の北鎌倉の住まいの一角に構え、純日本風にして生活したものの5年後には離婚。

生涯を通じ多くの女性たちと浮名を流したノグチであるが、なかでもよく知られているのは、メキシコの女流画家、フリーダ・カーロとの出会いだ。愛の逢瀬の最中に、独立や革命など社会的テーマを扱った国民的壁画家の夫ディエゴ・リベラに見つかり、ピストルを持って追っかけられた逸話は有名だ。


人生に交差した多彩な人物
ノグチの幅広い交友関係は女性ばかりではない。

アーティストとしての道を切り開く決心をさせたのは、アメリカ留学中の細菌学者野口英世と言われている。また奨学金を得て出かけたパリでは、20世紀初頭すでに抽象彫刻家として知られていたコンスタンティン・ブランクーシに会い、大いなる感銘を受けている。

また日本人では、丹下健三、勅使河原蒼風、岡本太郎、藤田嗣治、土門拳、安藤忠雄、勅使河原宏など著名人との出会いには枚挙にいとまがない。当然ながらノグチから得たインスピレーションもまた大きかったと彼らも異口同音に語る。

付随だが、没後にその意思を継いで完成された札幌市郊外にあるモエレ沼公園は、今春オープンされ、ノグチの最大にして最後の傑作と賞されている。加えて香川県牟礼町にあるイサム・ノグチ庭園美術館も必見である。


■地理案内
場所:32−37Vernon Blvd., Long Island City, NY 11106
時間:
水・木・金曜日    10am〜5pm
土・日曜日      11am〜6pm
月・火曜日      休館


入場料: US$5.00 (学生・シニア 半額)

地下鉄利用:マンハッタンよりN線に乗りロングアイランドのBroadway駅で下車。そのままBroadway通りに沿ってVernon Blvd(西に向かう)に向けて20ブロックほど歩くと左に庭園美術館が見える。不規則なスケジュールだがバス利用も可能。

タクシー:マンハッタンより約US$15,6.00

WEBサイト:http://www.noguchi.org/

マンハッタンで見られる主な作品群

@赤い立体(レッド・キューブ)彫刻:NYのノグチ作品の中でもっとも有名な物の一つ。爆破されたWTCから2ブロック東

Aニュース/AP通信社ビルの入り口 壁面彫刻:有名なロックフェラースケートリンクのあるロックフェラー・ビルディングの北隣

Bチェイス・マンハッタン・プラザ沈床園:「私の竜安寺」とイサムが称したもの。レッド・キューブのそば

C666 5th Ave.<水の彫刻>と天井:ティッシュマン・ビルディングの一階入り口

日加タイムス 2004年9月2日




人権先進国カナダ
その中心の街トロント


ゲイパレード
6月最後の日曜日、トロントの町は恒例のゲイパレードで大賑わいをする。これは同性愛者たちが繰り広げるお祭りで、数々の行事とともに、午後にはそれぞれ趣向を凝らして飾った150程のフロート(山車)が、町の目抜き通りをパレードして幕を閉じる。

裸すれすれの衣装で美体系を誇示する人もいれば、女装、男装をした人もいる。参加者は必ずしも同性愛者ばかりとは限らない。

政治家や多くの擁護団体、関連機関からも沢山の人が参加する。夏の盛りの一日、お祭り気分を盛り上げて大いに楽しもうとする人々の熱気でムンムンだ。

集客数は毎年百万人以上になり、町の収入に大きく貢献するため市からは助成金が出る。

今年は世界中を恐怖に陥れたSARSの流行で、トロントの町は長い間意気消沈していた。

いつものように羽目をはずした雰囲気が少なく、多少出足が鈍ったものの、それが返ってゲイコミュニティーの結束を強め、例年にもまして町の一大イベントをしっかりと支えたのである。


同性婚
だが今年のパレードが一味違ったのは、ほかにも理由があった。

それはオンタリオ州が同性愛者たちの人権に光を当て、長い間審議されていた「同性婚」の正式認知を承認したからだ。6月半ばの事である。

「同性婚」という言葉は、おそらく日本人にはまだ耳新しいだろうが、これは男女間の結婚と寸ぷん違わない条件で、同性同士が結婚することを意味する。

自分の子供を育てることも、また養子の受け入れも問題がない。すでにオランダ、ベルギー(養子は非承認)では合法化され、カナダは世界で第3番目の国だ。

だが現時点では、まだ国全体で承認されたわけではなく、オンタリオ州とブリテッシュ・コロンビア州のみで婚姻が承認さたことになったのである。

この2つの州では、長い間偏見と戦ってきた同性愛者たちの人権に対する最後の砦を越えたことになる。

それを反映してトロントのゲイパレードでは、幾組みもの新婚ほやほやのカップルが、先頭を切って登場した。

また市役所では休日返上で特別にオフィスを開け、婚姻届受領の便宜を図る粋な計らいもした。

写真(このサイトには掲載されていないー筆者)のイザベル(32)とケリー(25)も、喜びをかみしめながら婚姻届を出したレズビアンカップルである。2人はそろって目が不自由なため、2匹の盲導犬もぴったりと寄り添った。

トロントは今やNYを越して世界で一番多様な人種が住む町で、市民の半分が外国生まれである。宗教も、人々の考えもバラエティーに富んでおり、もちろん同性婚に大反対の人も少なくない。

特にカトリックやイスラム教関係者に多く「社会生活の基盤が崩れる」という。

人それぞれの考えを飲み込みながら、人権先進国カナダの大都会トロントは今日もゆっくりと稼動している。

ゆきのまち通信 2003年9月号




町をあげてシニア誘致に力をいれる、エリオット・レイク(Elliot Lake)
― シニアの皆さん、ど〜ぞ!―


ヒューロン湖の北
“エリオット・レイク(Elliot Lake)”と言っただけで、その場所をすぐに言い当てられる人は、きっとオンタリオの自然が大好きで、ワイルド・ライフをエンジョイするために、北の方によく出かける人だろう。

ここでは夏の間、キャンピングやゴルフ、また無数に点在する湖での水泳、ボート、フィッシングがエンジョイでき、冬場になると、クロス・カントリースキー、スノーモビル、アイス・フィッシングなどといったウィンター・スポーツを楽しむことができる。

だがこんな野外のレジャーなどに、余り興味のない向きには不案内の場所で、そんな人は大概「エリオット・レイク?それ何処にあるの?!」と首をかしげる。

この町は、トロントから車で約6時間。トランスカナダ・ハイウェーを北上し、Sudburyから130キロほど西に行った所で北に曲がり、さらに約30キロ奥地に入る。片道約550キロ、ヒューロン湖の北側に位置する。

アーバーン生活に慣れた都会人が想像すると、まるで森林地帯の中にひっそりとある小さなコミュニティーと思うだろうが、なんの、一体は広範囲に開拓されており、1万2千人ほどの人口が密集している町なのだ。ここはまたレジャー産業ばかりでなく、過去10数年余り知る人ぞ知るの町にもなっている。


シニアを誘致
「こんな人里離れた所に何があるの?」と不思議に思う人も多いが、それはこの町全体が、「リタイア後はエリオット・レイクに!」とシニア誘致に力を入れているのだ。だが都会から遠く離れた、積雪量や寒さのひときわ厳しい北の町となれば、そこをシニアのリタイアメント産業と結びつけることは容易ではない。

どのような歴史とバックグラウンドを持っているのか不思議に思い、出かけてみた。まだ春の兆しなどまったく感じられない3月半ばであったため、町は白一色だったが、雪は何処もここも、運転や歩行に支障のないようにきれいに除雪されていた

トロントなどの町中では、主要道路はすぐに雪かきされてきれいになるが、ちょっと住宅街に入れば除雪車が回ってこないことも多い。また住民が自分の家の前のわずかな歩道でさえ、責任を持ってきれいにするとは限らない。そんな道をおっかなびっくり、足元をすくわれながら歩くこともしばしばあるものだ。

だがさすがに、積雪量も多い徹底した雪の町となれば、中途半端なことは許されない。町なかには、小山のように積み上げられた雪の山がそこここに見られるものの、みごとなほど整然と雪の処理がされている。


ウラニューム鉱山
この辺りの歴史の始まりは、先住民のオジブウェ族たちが支配していた時代にまでさかのぼる。ヨーロッパ人の入植は1800年代の半ばで、ハドソン・ベイ・カンパニーなどが交易を目的として開拓を始めた。

近年になってからは、50年代に高質なウラニューム鉱山が発見されたことで、60年代半ばまで、非常に活気のあるブーム・タウンとして栄えた。またその後は原子力産業が導入され、町は衰退することなく経済的に潤ったものの、そうした一連の産業は96年に最後の鉱山が閉鎖したことで幕を閉じることとなった。

産業の衰退と共に町を去った人もいる中、ここに留まり自然に密着したゆとりのある生活を続けることを選択した家族もまた多かった。小さな町ながらしっかりと出来上がったコミュニティーによって、その後はレジャー産業などが維持されてきた。

そのブームに沸いた何年かの間には、特に鉱山が繁栄を極めていた時代に入植した人々のために、いくつかのアパート、タウンハウス、一戸建ての家々が建設された。だが人々が去ってしまった町にはこうした幾つも建物が残され、市はそれらを無駄にすることのないように知恵を絞ったのである。取り壊しなどをせずに、再利用するにはどうしたらよいか? その結果思いついたのがシニア向けの新たな事業計画であった。

「Elliot Lake, Retirement Living(ELRL)」と銘打って退職者をターゲットに起こした産業が、気ぜわしい都会生活に見切りをつけたいシニア、生活費の安い場所でリタイアしたいシニア、あるいは大気汚染などで健康に問題のあるシニアたちにアッピールしたのである。現在は人口の約1/4が65歳以上の人々である。

このビジネス成立の流れから分かるように、ここにあるシニア向け住宅は、ある一角をそのために確保してあるわけではなく、町中のあちらこちらに散らばっている。つまり、まだ小さな子供やティーンエイジャーのいるような平均的家族の家の隣に、トロント、ハミルトン、エージャックスなどと言った町から移って居を構えているシニアたちが暮らしているのである。


行き届いたコミュニティーの設備
当然ながら、病院、学校、消防署、警察、教会、シニア・センター、プール、コミュニティーセンターといった公共設備は完備されており、それは町の人口の倍にあたる3万人ほどに対応できるというのが市の自慢である。

病院もエマージェンシーから長期ケアのシステムまで揃っている上、ナーシングホームもある。またSudburyまで160 km ,Sault Ste. Marieまで 180kmで、どちらにも2時間足らずでいけることから、この町で処理できない問題や病気などの場合は、こうした町に送られる。

また子供向けの学校は小学校が6校、中・高校が2校、アート関係のカレッジ・大学が一校あり、教会にいたっては宗派の違うものが14も存在し、老若男女のどの年齢層にも各種のサービスができる町として発達している。


安値の家屋
町のビジネスマン達の胸算用は、コミュニティーに落とすシニア一人あたりの消費金額を年間2万ドルと見ている。その中には、家屋の購入や賃貸料も含まれるが、都会から比べるとやはり格段に安いといえるだろう。例えばアパートなら一ヵ月350〜450ドル、タウンハウスは420〜500ドル、また家のレンタルは460〜600ドルとなっている。

 ELRLは、全部で1500件余りのレンタルユニットを所有しているが、賃貸率は89%という。もちろん家屋の購入も可能だが、アパートや平屋一戸建ての平均値段は3万〜5万ドル程度である。都会の家を売却し、そのお金を元にここに家を購入して悠々自適の生活をするシニアが多いのがうなずける。

しかし元気なうちは、10月頃から5、6ヵ月の間フロリダ、メキシコ、ポルトガルなどに定期的に出かけるスノー・バードたちが多く、冬になると町のシニア人口は減少するという。

小さな町に行くとよく実感することの一つは、人々がとてもフレンドリーなことだが、ここも例外ではない。町中で人と目が合えばニッコリと微笑んだり、知らない人にも軽いあいさつをするのは珍しいことではなく、何処に行ってもそうした友好的な雰囲気に出会えることは嬉しい。
またどの店も整理整頓が行き届き、商品のパッケージが半分空いていたり、仏頂面のキャッシャーの顔に出会うことがないのも地方都市ならではのものだろう。

自然が大好きで、寒さが余り苦にならない人にはうってつけのリタイアメントの町といえるかもしれない。

〜*〜*〜*〜

「Elliot Lake, Retirement Living(ELRL)のインフォメーションは以下のホームパージで見られる。数字などに多少の間違いがある事に注意。

HPアドレス:http://www.cityofelliotlake.com/

ツアーをしたい人はこのHPから申し込める。この会社を通すと、ホテルは一泊目がフリーで2泊目は2人部屋30.00ドル(冬場)

日加タイムス 2003年5月16日

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フランス・ノルマンディー地方、「林檎の礼拝堂」
日本人美術家によって再建された16世紀の礼拝堂


ヨーロッパはどの国に行っても、それぞれに趣の異なるよさがあり、それゆえに旅人の旅情を誘う。

もちろんフランスもそんな魅力が一杯の国だが、いつもツーリストで賑わうパリを中心とした観光とは大いに違う、そして「これぞフランス!」という思いを充分に感じることできる旅を味わうには、やはり地方に脚を伸ばすのが一番だろう。

ではその脚の確保はどのようにするかとなると、団体旅行にでも参加する以外は、ユーロパスを利用するのがよい。一定期間乗り降り自由なパスは安上がりで便利である。

しかし残念ながら日本と違って、縦横無尽に国の隅々まで鉄道やバスが走ってはいない。となると時間的な制約もなく、好きなだけ自由に行動できるものは、レンタカーを借りるのが何と言っても一番である。

ド・ゴール・エアポートには、各種のレンタカー会社が揃っており、もちろんカナダから前もって予約を入れることは簡単である。運転免許証はカナダのがそのまま通用する。


ノルマンディー地方
フランスはイタリア、スイスとの国境地帯は、モンブランを始めとするアルプス山脈、ジュラ山脈が走り、スペイン国境にはピレネー山脈がある。またベルギー、フクセンブルグ、ドイツとの国境は一部がライン川で区切られ、中部は中央高地と呼ばれ高原地帯で、本土の64%が平野という立地条件にある。

そのためそれぞれの地域で、地方色豊かな特色を見せてくれるが、特に北部は寒暑の差が大きく、よく知られるフランスワインとは縁のない土地柄である。

だが反面、林檎の産地として有名で、それによって作られるアルコール飲料、シドールやカルヴァドスは、ちょっと酸味がある美味な飲み物だ。

春に咲き乱れる白い林檎の花、そしてのんびりと草を食む牛が放牧されている風景が、ノルマンディー地方の風物詩といえるだろう。

そんな地方色豊かな田舎町ファレーズ市の郊外に、サン・マルタン・ド・ミューという小さな村がある。一見は取り立てていうほどの変哲はない村だが、ここには500余年の歴史を秘めたサン・マルタン・ド・ミュー礼拝堂というのがあり、別名「林檎の礼拝堂」とも呼ばれている。

ヨーロッパなどには良く見られる小さな教会だが、この質素なそれでいて凛としたおもむきのある建物には、10年という歳月を費やして朽ち掛けた神の宿る場所を蘇らせた、ある日本人美術家とその家族の物語が潜んでいる。


田窪恭治氏
まるで何かの広告のように、before and afterとでもいった感じの2つの写真は、右が再生以前で左が再生後の礼拝堂である。

建立は1480年〜1500年辺りということだが、1828年には教会付きの最後の司祭が去り、本来の機能を失ったまま長いこと放置されていた。以来、1985年に地方自治体の音頭で、多少の修復工事が行なわれたものの、その後は使用されることもなく、廃墟と化していたという。

だがこんな教会の歴史は、ヨーロッパなどではさして珍しいとは思えない。しかしここが世界中のどこの礼拝堂とも違うのは、田窪恭治という日本人美術家が、建物の隅から隅までに手を施し蘇生させたことにある。

田窪氏は1989年に人脈も地縁もないこの土地に、日本から妻と子供3人(当時12,10,9歳)を引き連れて移り住み、再建準備に取り掛かった。

しかし誰でもが思うことは、なぜフランスの、なぜノルマンディー地方の、なぜこの片田舎の礼拝堂なのか、そして費用は?ということである。

その発端は15年前の冬にさかのぼる。田窪氏はそれまで多くの芸術家がやっているように、ギャラリーや美術館などで作品を展覧する既成のやり方に限界を感じ、試行錯誤の時期を送っていた。

つまり作品を「発表」することを目的とする作家活動よりも、「作る」ということのなかに、美術家としての新しい表現方法を模索するようになっていたのである。

そんな時期にパリ在住のある美術評論家の友人に、荒れはてていたこの礼拝堂を紹介された。朽ちてはいたものの、建物の持つ素朴な美しさとその荘厳さに心打たれ、見た瞬間からすっかり魅了されてしまったのである。

そのときの心境を田窪氏は、それまで「20数年間自分自身に問い続けてきた『どのように表現するか?』ではなくて『何を表現するか?』という作品を作るための目的が、初めて具体的なイメージをもって私の目の前に現れたのです」(「林檎の礼拝堂」・集英社)と記している。

そしてフランス語などとはまったく縁のなかった家族とともに、礼拝堂の近郊の街、ファレーズ市に移り住んだ。もちろん当市にとって、彼らは史上初の日本人家族であった。


作品誕生
芸術家というものは、多かれ少なかれわがままで自己中心的であり、目的のためには手段を選ばないということが多い。だがそうした性癖があるからこそ、人々に感動を与え、また歴史に残る作品を生み出すことも出来るのであろう。

言ってみれば田窪氏も決して例外ではなく、模索し続けていた対象との出会いによって、自分の夢を実現するために家族を巻き込んだのである。

そして生み出した息を呑むほどの礼拝堂一杯のリンゴの壁画。従来の瓦に6色の透明と磨りガラスを混入した屋根。桔梗の花を形取った鐘楼。野でエサをついばむニワトリを模した風見鶏。数え上げたら切りのない、建物の隅々に見られる田窪氏の鋭い感性が、礼拝堂に一歩足を踏み入れただけでぞくぞくとするほど伝わってくる。

プロジェクト完成までの資金は、田窪氏の熱意に動かされた数多くの日本企業(資生堂、電通、東京電力、日本航空、その他多数)や、日仏の人々の協力によって捻出された。

一人の人間のとてつもない芸術的発想が、一体どんな作品を生んだのか。この礼拝堂の話を知ったときから、私はいつか自分の目で確かめたいという思っていた。

名前の通りに林檎の白い花が、麦畑の向こうに見え隠れする春のノルマンディーの田園風景の中で、私は素直に「人間ってすごいな!」と深い感動に陥った。


田窪恭治(たくぼきょうじ)氏の略歴
美術家。1949年、愛知県生まれ。
1972年多摩美術大学卒業後、1975年パリ・青年ビエンナーレ、1984年ベネチア・ビエンナーレなど、展覧会のために制作を続けるが既成の作品制作や発表の方法に疑問を感じるようになり、1987年の「絶対現場―1987年」、1989年ロンドンでのオペラ「ゴーレム」の舞台美術製作を経て、新しい表現方法を形成していく。
1989年に礼拝堂プロジェクトのため家族とともにフランスのファレーズ市に移住、1999年10月に壁画を完成し帰国。礼拝堂再生で、1999年に建築界の「野村藤吾賞」を受賞。

日加タイムス 2002年9月6日

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「歳をとったら誰と何処に住む?」
日本(「COCO湘南台」)とカナダ(「アビーフィールド・ハウス」)に見る
シニア向けグループ・リビングの現状


ベビーブーマーの老後
「年を取ったら『何処に』『誰と』住みたいか?」と聞かれたら、あなたなら何と答えるだろうか?

今はまだ現役で溌剌と仕事をしている人でも、いつかは必ず年を取り、リタイアメントの時期を迎える。もちろん将来の予測は誰にも出来ない。だが「こんなふうでありたい」という、漠然とした未来図を描いている熟年層の人は多いことだろう。

よく知られているように、日本はあと15〜20年ほどで空前の老人大国になる。もちろんカナダもベビーブーマーたちが、「シニア」と呼ばれる時期を迎えその数が激増する。

日本ほど家族の絆というものが強くない北米では、「年を取ったら子供やその家族と一緒に住みたい」と思っている人は、余り多くないのではと思われる。大家族主義のエスニックの人々は別の話だが、一般的には三世代同居というのは珍しい。

では理想的といわれる“スープの冷めない距離”に、子供や親戚がいてくれればというのはどうだろうか?シニアの年齢にもよるが、これはかなりの人が望んでいるようだ。しかし将来彼らが、必ずしもが同じ街や地域に住むという保証はない。

さらには、子供のいない人、独身の人、配偶者と離婚、死別した人などその家族形態はさまざまだ。しかし好むと好まざるとにかかわらず人はいずれ、老夫婦のみか独居などを余儀なくされるようになる。

オンタリオ州の場合には、リタイアした後に公営/私営のシニアのアパートに入居するとか、あるいはコンドミニアムに移る人も多いものの、体が利かなくなったらナーシングホームに送られる、というのが一般的な余生の送り方のようだ。

では最初から子供や親戚などには頼らず、気のあった仲間たちが少人数集まって、プライバシーを守りお互いに助け合いながら、余生を一緒に楽しく暮らすというのはどうだろう?

「グループ・リビング」と呼ばれるそんなアイディアが、静かなブームになっている日本の現状を取材してみた。


「COCO湘南台」のケース


一人の女性の夢実現
まだ開通まがない神奈川県の地下鉄市営線「藤沢駅」から、バスで10分足らず。お天気のよい日には歩いても20分とはかからない場所に、今何かと話題のグループリビングの先駆者たちの住まい「COCO湘南台」がある。

建物は落ちついた住宅街の一角にあり、町並みは清潔で外から見ただけでも、如何にも住み心地のよい住居を想像させる。

ここには“用地もお金もない人達”が集まって、地域の保健医療、食事づくり、家政などのサポートシステムを最大限に利用しながら、10人のシニアが一緒に助け合って元気に暮らしている。

これだけ聞けばまるで夢のようなシニアホームだが、これが実現するまでにはコーディネーターである西条節子さん(74歳)という、アイデイィアも元気も人気も一杯の、一人の高年女性の大活躍の物語がある。

彼女は神奈川県立藤沢高校教諭をへて、藤沢市議会議員6期24年を務めた女性で、特に知的障害(児)者の親たちとともに、藤沢市に福祉の輪を広げて行くなどの、人間味のある行政を幾つも実践した人である。

いつも人のため、地域のために働き続けてきたものの、独身で子供もない身では老後のことは「なんとかなるだろう」と、若い頃はあまり心配はしなかった。

だがその西条さんも定年を間じかにしたころから、日本の社会保障の現状を知るだけに「何とかしなければ、何もならない」と自覚し始めていた。

そんなフツフツとした思いは、60歳半ばになる頃には理想郷を誰かが作ってくれるのを待つのはやめて、まだ元気なうちに自分が望む暮らしを確立し、人生の終焉迎える場所は、自分たちの手で作ろうという考えに至ったのだ。

そして仕事で培ったノウハウと、人柄によって得た素敵な人脈を生かして、とうとう「同じ考えの人この指とまれ!」とばかりに皆に声をかけたのである。ないないづくしの人々の集まりながら、ここでグループリビングという新しいコンセプトを、実践に移す一歩を踏み出したのだ。第一回目の会合を開いたのは1996年5月のことである。


3年の歳月後に完成
西條さんは、まず指に止まったそれぞれに違った分野で活躍する友人たちを中心に、支援グループを立ち上げた。そして皆で協力しながらNPO法人格を取得、運営し、度重なる研究会を開き、土地を探し、行政を動かし、行政からの補助金をできるだけ取得し、足りない資金を捻出するという聞いただけで気が遠くなるような一連の作業を共同でこなしていったのである。

結局この準備期間に3年を要したが、紆余曲折、試行錯誤の末に「自立と共生」を旗印にしたホームが完成した。

入居後は地域社会に溶け込み、社会的資源の支援を受けながら、元気に暮らし、死ぬまでここで生活するという生涯型のシニアホームを、6、7、80代の9人の仲間と一緒にこよなくエンジョイしている。

将来病気になった場合にもすぐに入院して薬漬けと言うのではなく、地域医療システムや在宅支援を最大限に利用して、自分らしい人生の終焉を迎えることを年頭においている。

ちなみに入居者は、一般から集まった人達であるが、西條さんを中心とした支援グループのメンバーが、希望者との面談を重ねて決定した。

既存の老人ホームや高齢者用の住宅となれば、その箱の中に自分を合わせ押し込めていくことになる。だがCOCO湘南台は“理屈の通ったわがまま(希望)”をスタンスに快適なシニアの生活を獲得したのだ。


年金でまかなえる居住費
この施設が何よりも素晴らしいことは、お金持ち向けの贅沢なシニアホームではなく、生活者の経済的レベルを、自分の年金または、遺族年金などで生活する層(年額150万〜240万円くらい)に絞っている点だ。また入居に当たっては一時金が必要だが、これも300万〜400万円と、今の日本の相場からすれば大変に穏当な金額である。

西條さんの言葉を借りれば、この層は「社会保障のボーダーライン」と言うことになる。

聞きつけた全国のシニア予備軍の見学者は最初の一年で900人にもなっている。メディア関係などの取材も年中あるというから、その人気のほどが伺えよう。

皆思ってはいてもなかなか実行に移せないアイディアを、現実化した西條さんに大きな拍手を送りたい気持ちなのだろう。

そして「明日はわが身」という思いとともに、何かを学べるかもしれないという興味が、引きもきらない見学者を迎え、その結果似たような形態のグループ・リビング設立に向けて、各地でいろいろな人達が動き出しているという。

西條さんは議員時代には外国の高齢者、障害者の施設を沢山見る機会に恵まれ、活力に満ちた高齢者に出会うことが多かったが、驚いたのは質素な食事であった。

マッシュポテト、グリ−ンピス、肉の切り身といった献立を見て「日本人にはとても駄目だな」と思われた由。このコメントに私は思わず吹き出してしまったが、我々日系人が一番心配するのも、公的な施設に入った場合の食事である。

COCO湘南台では、食事と清掃は委託契約を結んで外部からの有料支援によってまかなわれている。来る日も来る日も食事づくり、掃除、洗濯に追われて来た主婦には、このサービスは何とも嬉しいものだという。

もちろん共有のキッチンは完備しているので、たまに自分で何か作ることは可能である。


「アビーフィールド・ハウス」のケース


イギリスが発祥
さてそれではトロントにも同じように少人数のシニアが住んでいる例があるのだろうか? 嬉しいことに答えは「イエス」なのだが、そのコンセプトは日本とはだいぶ異なっている。

まず第一にCOCO湘南台のように、一市民が立案して公的費用を使いその夢をかなえた、などというものはこちらにはないようである。

それでも一番そのアイディアに近いものは、「アビ―フィールド(The Abbeyfield)・ハウス」というシニアホームであろう。

1956年にイギリスのリチャード・カー・ゴムという軍人が、思うところがあって軍隊を辞め、孤独なお年よりの面倒を見たことから始まったのが、このシニアホームである。

今では世界的な規模に発展し、アメリカ、カナダ、オーストラリア、イタリア、オランダなどを始めとして、世界10各国余りで組織されている。

施設の総体個数は1100ほどで、カナダにもBC州を始め数ヶ所に存在する。トロントにはスカーボロに一ヶ所あり、現在数人ほどが共同生活を送っている。しかし私が取材した限りでは、清潔で日常生活に不自由のない生活ではあるものの、「自分が望む暮らしを自分たちの手で」といった概念はない。

身寄りのない孤独な老人
この組織のコンセプトは、健康で身の回りのことを自分で始末できることを条件にしているが、例えば世間から隔離された孤独な状況にあるシニアが主な対象なのだ。当然ながら日本のそれとはかなりかけ離れた理念である。

共同生活の人数は大体数人〜10人程度で、住宅街の普通の家を買い取り、車椅子などの出入りのために入り口を改造し、中にエレベーターを設置している。

この車椅子用のスロープがなければ、外からは一見シニアホームとは見えない。一般のコミュニティーのなかで、できるだけ普通の生活を維持するような形をとりながら、少人数の共同生活を営なむのが、この組織の主眼である。

ここでの一番のキーパーソンは、フルタイムで働く住み込みのハウスキーパーで、諸事の責任を引き受ける一方、毎日の食事の支度をするのが主な仕事である。

大概は女性がこの地位にあり、定期的に組織委員会の方に各種の報告を行う。他に掃除、建物のメンテナンス、庭の世話などはパートタイムの人々が手助けしている。

部屋は狭いながらも個室になっていて、バスルームは共同である。

このほかにもトロント市内には、オッコーナー・ハウス、ステーブソン・ハウスなどと呼ばれる少人数のシニアホームがあるものの、それは全部アビーフィールド・ハウスと同じような基本的概念で成り立っている。

気心の知れた者が集まって、わいわい楽しくという思いからはかけ離れているようだ。


さて、プライバシーは守りながらそれでいてお互いに必要なときには手を貸しあう。加えて誰かがおいしい和食を毎日作ってくれるなどという、天国のようなグループ・リビング。トロントでどなたか一歩を踏み出しませんか?

日加タイムス Aug.2,2002

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キューバあれこれ


アメリカ人の観光客 
周知のようにアメリカ人は、カリブ海に浮かぶ社会主義国、キューバには行けないことになっている。
となると、この島では「アメリカからの旅行者に出会あうことはない」と普通は想像するが、それは思い込みのようだ。世界中のどんな小さな街にも、チャイニーズ・レストランがかならずあるのと同じように、アメリカ人が出没しない国など世界にはありえない。

最近10年振りにキューバに出かけてみて、いろいろな変化に驚いたことは多いが、その一つはアメリカ人の旅行者の数であった。
では国交のない国にどうやって出かけるかといえば、そのほとんどの人は、まずカナダに北上し、オタワ、モントリオール、トロント、カルガリーといった街から出発するチャーター便に便乗するのである。

カナダとキューバは友好国で政治的な問題はなく、特に冬の長い北国の人々に取って、避寒地のトップの一つがキューバなのだ。
ホテルも食事もすべて込みというリゾート地に出かけるには、もちろん前もっての予約は必要であるが、今時はインターネットですべての用事は済む。どこまでも白い砂浜の続く海辺のホテルでの休暇は、場所やホテルの好みによってまちまちだが、大体1週間数百ドルから1200〜1300ドルが相場である。

国境に近い街に住む人々は、車でカナダに入国し空港近くのホテルに一泊。翌日車をエアポートの駐車場に預けて出発する。帰りはカナダに到着次第そのまま運転して、街から離れたハイウエー沿いの安いモーテルで一休みして帰国する、というのが常套のコースのようである。

常連も多いと聞くが、カナダを訪れたことのない人々にとっては、キューバ旅行の前後にカナダ観光を加え、一石二鳥という楽しみ方もある。
しかし「公」ということではないため、その足跡を残さないようにするには、キューバへの入国の際に、パスポートにスタンプを押さないようにしてもらう。

もちろんキューバ側はドルが落ちるのだから、文句を言う筋合いはまったくない。「行くな!」と言うのはアメリカで、キューバの方は「来るな!」なんて言ってはいないのだ。
たった数日間の滞在で必ず本国に帰る旅行者を拒む理由は何もなく、落としてくれるグリーンマニーは国の発展に欠かせない。

ちなみにキューバ国内では、カナダドルなど全く振り向きもされず、間違って同じサイズのコインなどを使いでもしようものなら「Canada money、No good!」とつき返される。

ヘミングウェーの足跡
メキシコ湾、大西洋、カリブ海に囲まれたこの島で、一番きれいな海岸はハバナの東にあるVaradero Beach。もっと東に位置するCayo Cocoも白い浜辺が売り物である。
島から見る海は、「青」「蒼」「藍」のどれもが当てはまる水の色をしている。たかだか海岸から1キロほどの海中でも、スナークリングで見るさんご礁や、熱帯魚は息を呑むほどの別世界だ。もちろんダイビングも可能である。
巨大なカジキと格闘するキューバの老魚師の話「老人と海」(ピューリッツァー賞受賞)を書いたノーベル賞作家、アーネスト・ヘイングウェーが、この国をこよなくを愛したことはよく知られている。

数ある彼の作品の中でも、誇り高い海の男の物語は、最後まで希望を捨てず前向きに立ち向かう不屈の精神が受けるのか、これを愛読書とする人は多い。
凪いだ海に小船を浮かべて釣りをする土地の漁師は、遠くから見ると皆この小説の主人公のように見えてしまうが、沖へ釣りに出てかかるのはバラクーダという種類の魚が多い。
またCayo Cocoのビーチは、彼の作品の一つ「Islands in the Stream」の舞台になった場所で、魚釣りの好きな人には堪えられないスポットという。

OCS News, July 6, 2001

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2008年のオリンピック開催を狙うトロント


親掛かりの選手たち
各国の一流選手による一流の競技が見られる4年ごとの祭典。 シドニーオリンピックも、連日テレビに釘つけの人が多いだろう。日本人として外国暮らしをしていると、競技中のゲーム観戦にはしばしが複雑な思いがよぎるというのをよく耳にする。

つまり血が騒ぐというのか、やはり心情としては日本を応援したいし、表彰式で日の丸が揚がれば嬉しいが、同時に住んでいる国の選手も気になるというのだ。 今時は北米大陸で、毎日NHKのテレビ番組が見られるのはまったく珍しいことではなく、トロント周辺でもこの春あたりから、地元のケーブル会社と契約すれば電波が入るようになった。

しかしこのオリンピックの観戦は放送権の関係で日本のものはご法度のため、当然ながらゲーム開催中は、カナダの放送局のものが中心である。
カナダの選手は能力や体格から見て、並いる世界の選手たちに決して見劣りはしないのだが、オリンピックという国際競争の場に立つと、どうも隣国アメリカの選手ほどに頑張れない難点がある。その一番の理由は何か? やはりオ・カ・ネである。

  アメリカ、オーストラリア、イギリスといった国々に比べると、カナダの選手は国からの援助が驚くほど少なく、特に93年から95年にかけて、連邦政府はスポーツへの助成金を40%も減らした。その後多少の増額はあったものの、各種の道具の調達や、外国で行われる競技大会への出席、生活費など公私にわたる出費をとても賄いきれず、四苦八苦している選手が多い。

もちろん企業がスポンサーになる例もあるものの、そんな口がかかるのはごく選び抜かれた知名度の高い選手のみで、全体の5%にも満たない。結局、選手の多くは親掛かりなのである。
幸か不幸か子供が秀でてスポーツが好きとなったら、まずは親に、選手として育てられる経済的能力があることが前提、というのは今やカナダでは常識となっている。
才能があっても、こんな理由で埋もれている若者はかなりの数かもしれない。

2008年のオリンピック開催地
7月末には、8年後の夏季オリンピック開催候補地が絞り込まれ、大阪、北京、パリ、イスタンブールとともにトロントも招致をめぐるレースの出発点に立った。
アトランタの時に負けを見た経験があり、今度こそはと関係者は意気込んでいるが、今のところはまだ余りにも先のことで、一般市民には現実感が乏しい。

メディア関係は総じて協力的だが、辛口の論評で知られる「トロント・スター」紙(発行部数200万部)の女性コラムニスト、ロズィー・ディマノは「オリンピック?ここで?冗談でしょ、現実を見てよ!」と書き、はなからそのアイディアに賛成しておらず、トロントでの開催の無理をいろいろと指摘する。

また経済界からの支援が今のところ余り得られないのも難と言われており、オリンピックが決して想像するほどにうまみのあるビジネスでないことは、今までの開催地の収支が物語っているからだろう。
候補地は主要審査基準の6つのカテゴリィー(宿泊施設、支援サービス、スポーツ施設、選手村、交通の便、治安)から判断されたが、トロントは最強の競争相手をパリと北京と見ている。

それぞれの街に一長一短があるのは当然だが、他のどこよりもトロントがずば抜けて秀でているのは、この街とそこに住む人々の多様性だろう。ここには約170カ国の国からの移住者が住んでおり、100カ国以上の言葉が話され、80以上のエスニックグループが存在し、人口の半分近くが外国生まれで、毎年7万人もの移民が移住して来ると統計は示している。

人種のルツボとして内外に知られるNYでも、外国生まれは人口の1/3というから、ほかの街にはない際立った相違点が容易に伺われる。もちろんこれだけが開催地の必須条件ではないが、大きなプラスファクターにはなるだろうと関係者は希望を託している。
来年7月のモスクワでのIOC最終決定会議まで、5都市の競争がますます過熱化されるのは言うまでもない。(トロント・オリンピックサイト: http://www.to-2008.com )

OCS NEWS 2000年9月29日

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プリンス・エドワード島
アンのふるさと


日本女性憧れの地
世界で一番読まれているカナダの小説と言えば、言わずと知れた「赤毛のアン」。

特に日本女性には絶大なる人気で、少女時代にシリーズを読破して、アンにはまってしまった人はちょっとやそっとの数ではないという。
その後、長じて「あのアンの島に1度は行ってみたい!」と、思い続けている女性もまた多いとか。その証拠に、雪が終わり春の兆しが感じられると、島には若い日本女性の数が徐々に増え始め、夏には最高潮に達する。

それだけではない。中にはこの島にすっかり取りつかれて長期滞在する人もいれば、日本から見ると地球の反対側になるその距離をものともせず、赤土のジャガイモ畑の端にある白い小さな教会で、ウェディングベルを鳴らすカップルなども珍しくない。

こちらの結婚式には立会人がいるため、花嫁のヘヤーを整えた美容師さんが、にわかに代役をおおせつかったなんて面白い話も耳にする。
どおりで観光スポットでは「貸し自転車あります」とか「ロブスター日本に送ります」なんて日本語の看板を見るはずだ。

しかし長年の夢がかないこの島に来て、ツーリストの多い街の様子に落胆はしても、またアンの作者や作品のゆかりの場所で、隣りの人と肩がぶつかるようなことがままあっても、ここはやはりアンが愛してやまなかった島。

街をちょっと離れれば、大西洋の群青をバックに色取り取りのルピンが咲き乱れる光景や、人っ子1人いない海岸、松林のハイキングトレイルに容易に出会い、夜空はさんざめく星たちの独断場だ。

  「インターネット?Eメール?Fax?そんなものくそ食らえ!人は文明の利器なんかなくても生きていける!」とそんな気持ちにふとなる自然との一体感や静寂の空間は、アンが生きた時代と何も変わっていないようにさえ思える。
素朴でオープンな島人(しまびと)の人柄とあいまって、都会では決して感じられないじわっとした温かさが何とも快く、まさに"Island way of life"の醍醐味を味わえる。

島に掛かった橋
しかし今は「島」とはいえ、綿密な調査と島民たちの長い議論の末に掛かった橋が、3年前から本土との距離を縮めるようになった。
これによって目立って変わった島の生活は、医療機関へのアクセスの容易さと買物の便利さだという。

  また冗談のようで本当の話は、橋が掛かって以来、以前には見られなかったコヨーテという狼の一種が島にお目見えしたことだ。まさかこの動物がトコトコと橋を渡って島に移住したわけでもあるまいに、不思議な現象ではある。

今後更に広がるであろう橋の波及効果のプラスとマイナス面を比較するには、まだしばらくの時間がかかるようだがフェリーでのんびりと渡る時間的ロスが解消したことだけは確かなようだ。
しかし島民はもちろんのこと、この島に恋した多くの人たちに取ってただ一つの願いは、これから先関係者が自然を破壊し便利さだけを優先することのないようにという思いである。

カナダ / プリンス・エドワード・アイランド
 カナダの10州の中で一番小さな州で東海岸の大西洋に浮ぶ島。州都はシャーロットタウン。面積5660平方kmで日本の愛媛県と同じ大きさ。「カナダの庭園」の別名に相応しいのどかで平和な島である。肥沃な土壌に恵まれており、PEIのポテトは有名。
島の発見は1534年だが、開発は遅れ連邦に加わったのは1873年。


ゆきのまち通信 2000年9月号




日系カナダ移民の「こころ」を残そう、飛躍するトロント日系文化会館


日本からカナダへ渡ったパイオニアは、1877年にヴァンクーヴァーに到着した永野万蔵である。
以来120余年、後に続いた多くの日本人の血は受けつがれ、トロント周辺では現在5、6世代までを数えている。そうした人々の、心の拠り所として存在するのが市の郊外にある日系文化会館。

去年の春、手狭になった旧館を閉じ移設、改築工事が進められている。
工事資金を募る記念碑の除幕式が、このほど行なわれた。

新館への引越しはわずか3ブロックほどであったが、旧館の約3倍もある広い建物の内部を、できる限り日本的なインテリアに変えるため、館内は至るところで改築中だ。
しかし、これには多大な資金がかかり、会館では「鶴キャンペーン・未来への贈り物」と名付けた募金活動を行なっている。現在までに約三二〇人から八百五十万カナダドルが集まったが、目標は一千三百万カナダドルという。

  日系に関係なく寄付を募っている。先日それを祝う記念碑の除幕式が行なわれた。
この記念碑は新館内の入り口近くにある広間の壁に24枚のスレートを使って、北斎の版画を想起する波のうねりを躍動的に浮き立たせたもので、シンボルの鶴や、日本独特のモチーフが表面に彫られている。
「日本的な繊細さと石の力強さのハーモニーが絶妙」と、日系コミュニテイーでは大変な評判だ。また作品の真下には、一口2千カナダドルの寄付をした団体や個人名、言葉が記されている。

その中には「大戦の激流に峻厳な人生を強要された同胞の光となりて...」といった文章も見られ、ここに至るまでの決して平坦ではなかった彼らの歴史をかいま見る思いがする。
第2次大戦前、日系カナダ人はブリティッシュ・コロンビア州に一番多く在住し、新開地でのビジネスに成功した人もかなりの数だった。だが戦争勃発とともに政府に財産を没収され、多くの人々が雪深いロッキー山脈の麓に強制収容された。

また終戦後は国の東部への分散定住に従うか、日本へ帰国することを迫られ、着の身着のままでトロント周辺に移動した人は多い。
カナダ政府は1988年に自国の非を認め、補償を成立させたが、半世紀以上たった今でも「まるで荒野に放たれた1匹の子羊のようだった」と、ある高齢の一世は当時を述懐する。

日本の敗戦はトロントに移動した日系人の生活にも重くのしかかり、戦後も続いた排斥という厳しい社会的背景の中で再出発した人々の生活は苦しかった。
このような歴史にほんろうされ理不尽な思いを抱きながらの日々に、同胞が寄り合って作ったのが旧館である。口には言い尽くせない思いの丈を込めての会館の建設に、「住む家を抵当に入れた」などの話は今でも語り草になっている。

過去四半世紀に渡って、会長や理事職を経験しているシッド・イケダ氏(65)は日系2世。全部で7人兄妹だが、末っ子は収容所で生まれ、また父親はそこで亡くなっている。戦後、母親を中心に一家が肩を寄せ合って暮したトロントの生活では「あえて日系人であることを忘れようとした」という。

しかし長男が会館で柔道を習い始めたのを機に、コミュニティー存続の重要性に目覚め、夫人と共に日々会館への協力を惜しまない。
またその他常時活躍する200人以上ものボランティアには、戦後カナダに渡った移住者や、駐在員たちも多く含まれる。

残念ながら今回の移設で旧館は売却されるが、次代を受け継ぐ若い日系人たちは、先駆者の心情を忘れないよう心がけている。
現在会員3千名以上を数える会館の運営は、カナダ社会に根を下ろして活躍する3、4世が中心である。

しかし多くのエスニックの中でも、日系人は異人種間結婚率が96%と高い。日本のルーツを根底にした維持継続が、今後どこまで続けられるかが、会館の大きな課題になっている。

鶴キャンペーン連絡先:文化会館(416)441−2345

朝日新聞 Jul.1,2000




観光ブームに沸く街
夏のトロントにいらっしゃいませんか!


きれいで安全な町
夏たけなわ。まだホリデーをどこにしようかな,とお迷いのあなた、国境を北に一っ飛びしてこの夏はトロントにいらっしゃいませんか?
相変わらず弱いカナダドル。ここに住む者はイライラし通しで「アメリカは遠くになりにけり!」という感じですけど、アメリカから来る方たちには嬉しい換算。「エーッ、こんなに貰っていいの?」と改めてグリーンマネーの威力をお感じになるでしょう。この街に来るツーリストの20%がアメリカからというのもうなずけます。

ここメトロポリタン・トロントといわれる地域の人口は400万くらいなのに、去年だけでのべ2千百万以上の人たちが訪れ、毎年5%くらいずつアップの状態なのです。
もちろんカナダドルが安いのが一番大きな理由ですが、それに加えて街の中はきれいで、人々は親切なうえに礼儀正しくそしてコスモポリタンの雰囲気なのです。(おお、自分の住む街をこれほど自画自賛できるなんて素敵でしょ?)人種のるつぼであるNYは、外国生まれの住人が28%と言われていますが、トロントは何と48%!

北米人が大好きなコンベンションなんてもう10年先までの予約が入っているとかで、毎年800人以上のジャーナリストがここにやって来ては、いかに素敵な街かを国に帰ってから吹聴してくれるとか。「トロントに一度でも来たことがある人は皆自国に帰ると親善大使になるのですよ」とはオンタリオ・ツーリストの弁です。
おかげでシーズン中はちょっとホテルが取りにくいのが難点ですが、市内に泊まれば地下鉄,市電,バスがあり安全度も清潔度も抜群。

もちろん6月からの3ヶ月が観光シーズンのピークですが、この時期に来て「あら、雪がないの?!」なんて言っちゃ困りますよ。いや、笑わないで下さい。カナダは一年中雪に閉ざされていて、白熊と一緒に生活していると思って来る人は沢山いるのですから。

市内の見どころ
さて市内には一杯観光スポットがあります。どの街でもそうであるように、まず市内の様子をさっと見るのには観光バスに乗るのが一番。ここにはOlde Towne Tourというトロリーが走っていて、観光の後はどこで下りようがまたどこから乗ろうが自由自在。

まず一本足で立つタワーとしては、世界で一番のっぽのCNタワーに昇って街中を見てみましょう。「あっ、これCNNタワーね」なんて言うのは大概アメリカ人。どこに言ってもアメリカのものがあると思っているのが彼らの可愛いところです。また幾らウィスキーが好きといっても、タワーの真下に見えるRoyal York Hotelを Crown Royal Hotelなんて言っちゃいけませんよ。ここは由緒あるホテルで、貴賓がいらっしゃるとお泊りになるホテルですから。

NYの美術館や博物館には比ぶべくもないのですが、ここにあるのはローヤル・オンタリオ博物館とアート・ギャラリー・オブ・オンタリオ。珍しいのはバータ・シュー・ミュージアムで文字通り靴の博物館ですがここはなかなかのコレクションです。またホッケーの好きな人はホッケー・ホール・オブ・フェイム。街中には小規模のお城もありカサ・ロマと呼ばれています。

買い物狂いしたい人には、ダウンタウンにあるイートン・センターと湖畔のハーバーフロント・センター。高級品はヨークビルとブロアー通り&ヤング通りの界隈。世界の有名ブテイックはすべて揃っていますし,カナダドルの安さを考えると同じものでもこちらの方が安いとのことですが、ただし税金が15%あることを忘れないで下さいね。もちろん帰りに空港で手続きをすれば8%は返ってきますので、時間と辛抱のある人は是非ぶん捕り返して下さい。

NYに次いでミュージカルや演劇が見られるのもトロントの特徴で、劇場街はキング・ストリート&ユニバーシィティー・アヴェニュー辺りとヤング・ストリート&ダンダス・ストリート界隈。マティネーにはアメリカからバスで繰り出してきたシニアで一杯です。

また子供連れの家族には大人共々楽しめる遊園地オンタリオ・プレイスと、フェリーで湖を渡って行くトロント・アイランドが待っています。湖畔を回るクルージィングの発着所も近くです。
もちろんトロントから2時間ほどの所には世界的に有名なナイアガラの滝があり、カナダ側からの眺めの方が、2つの滝を正面から見渡せて絶景なのは言うまでもないことです。よもやアメリカ側からのみ見て「ナイアガラの滝を見た!」などとおっしゃらないよう。それは象の鼻をさわって象を語ると同じこと。

またワイン通にはナイアガラ・オン・ザ・レイク界隈のワイナリー・ツアーに参加するのもよし。この街はこじんまりしたツーリストタウンであると同時にバーナード・ショウ劇場があり演劇も楽しめます。

さてさて紙面にまかせて沢山羅列してしまいましたが食指が動きますか?さー、トロントにいらっしゃい!そして沢山のグリーンマネーを落して下さいませ。

http://www.torontotourism.com/
Tourism Toronto:1-800-363-1990

OCS NEWS Jul.30,1999




オーロラの見える街


街のプロフィール
カナダ、アルバータ州、フォート・マックマリー市:
 太平洋岸に近いアルバータ州の州都、エドモントン市から北に435Kmにある町。人口は38000人ほど。オーロラが美しく見える条件に一番かなった地域にある町と言われ、大自然に囲まれた環境は抜群で、先住民も多い。またオイルサンドの産出地であることから、経済的に活気があり、カナダの中でも個人所得が高い地域の一つ。

年々増える日本人観光客
「ドラゴンのようなオーロラ、フラッシュのように光り私たちを包むカーテンのよう...すべてが感激、感動の雨あられでした」、「オーロラを見られたときは、まるで夢の世界のようで、カメラは二の次、言葉がまったく出ないという感じでした」等など、多くの賛辞が日本人観光客から、フォート・マックマリー市の観光会社に寄せられるようになって二年になる。

旅程はたった三泊四日。ただひたすら神秘な自然現象を見たくて、この北緯一四五度の街まで遠路はるばるやって来るツーリストに、最初地元の人たちは驚きを隠さなかった。しかしその数も既に千人近くになり、この頃は"オーロラ大好き"の日本人を、この街の住人(人口約3万8千人)は暖かく迎えている。

世界で一番オーロラの美しい街
オーロラは地球の地磁気と太陽からの太陽風と呼ばれる荷電粒子との関係で起る発光で、地上八十〜数百キロの高さに現れる現象だ。
専門家によると、この街は一年の晴天日数が多いために、世界のどのオーロラ観賞区域の地点よりも美しいのを見られる日が多く、その可能性は九十%を超えるという。

しかし何といっても相手は大自然。滞在期間がたった三、四日では「せっかく来たのに!」と地だんだを踏むこともある。だがもし運悪く神秘のベールを仰ぎ見られなくても、アンドロメダ、オリオン、スバル、マース、そして数え切れない流れ星など、肉眼で見られる数千の星を心いくまで観賞し天体との一体感を味わえる。

オーロラの観賞期間は、十月から三月までの新月をはさんだ二、三週間だが、加えて晴天で空気が澄んでおり、近くに人工的な明るい光りや山などがないことも必須条件だ。
またこの季節は昼間でも摂氏マイナス十三度〜二二度。夜ともなればマイナス三、四十度にもなるが、滞在中は超暖かい防寒具などをレンタルすることができる。

目に焼き付いた思い出をカメラに収めるには、露出時間の調節が可能なカメラが必須。フィルムはASA四百以上で、三脚なども必要というが、写すまでに防寒具の内側で温めて置かないと実際の時に役立たなくなってしまう。

オイルサンド、インディアン、そして牧畜
またフォート・マックマリー市は、向う五百年は掘り続けられるという世界最大の埋蔵量を誇るオイルサンドでも有名である。大自然の中にポッカリと出現したような街は、オーロラ観賞のツーリストの他は、もっぱらオイル関係のビジネスマンが行き交う場所だが、それだけに経済的に潤った街である。

加えてカナダの先住民であるインディアン(クリー族、チペゥワン族など)が多く住んでいることでも知られている。もしかして先祖は何処かでつながっているのかな、とふと思えるほど日本人に似ている人に出会うことも多い。

アルバータ州は州民の数よりも家畜の方が多いといわれるほど牧畜が盛んで、BBQで食べるステーキは格別の味であることも付け加えておこう。

ゆきのまち通信 1998年9月号




文化二都物語「アンの島に橋が掛かって」


世界で一番読まれているカナダの小説は「赤毛のアン」。その舞台となった島プリンス・エドワード・アイランド( PEI)に橋が架かった。開通は来年六月。

今もアンの時代と余り変わらない牧歌的な島の有り様が保たれているのは、一時間もフェリーに乗らないと渡れないからと皆信じている。 それが車なら十五分となれば「島の将来は?」と作者のモンゴメリー夫人も、きっと草葉の陰で心配しているに違いない。

PEI政府は年百万人の旅行者を見込み、事業拡張、新ビジネスの開拓を懸命になって宣伝しているが、さてここも又、時代の波に押された経済優先の島になってしまうのだろうか...。

私も少女期にはアンに熱中した一人で、新婚旅行は夫を説き伏せて住まいのトロントからPEIに出かけた。あれから二十年。変わる歴史の節目をこの目で確かめたくて、この夏は二人の子供を連れての家族旅行を試みた。

島の人々の穏やかさは変わらなかったが、皮肉なことに、あと半年の命であるフェリーからの新しい橋の眺めは、この上ない景観だった。

朝日新聞 Dec.5,1996