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広い芸術活動に才能を発揮 トロント市 アーティスト トモレノン氏
日本語文法の謎に光を当てる モントリール大学 言語学者 金谷武洋氏
カナダは世界で一番偉大な国
メノナイトのキルトに見せられて キルト・アーティスト 泰泉寺由子(じんぜんじよしこ)さん
無限の想像の世界にいざなう トロントのアーティスト 飛鳥童(あすかわらべ)氏
日本人母の引き起こした幼児放置死事件(アルバータ州・カルガリー市)に寄せて
舌のピアスで脳の病気に?
仏語系カナダ人とは
シェークスピアンの肖像画
トロント日系文化会館新館長、ジェームス・ヘロン氏
身障者向けのコンピューター・ソフトを作る車椅子の研究者、横田恒一さん
国連特別総会「女性2000年会議」平等へのゴールを目指す女性たち
カナダの英雄テリー・フォックス
トロントの日系社会で活躍する日本人歯科医 白藤青湖氏
エイドリアン・クラークソン新カナダ総督
カナダの青空の下で「いい湯だな!」 佐藤清一氏



広い芸術活動に才能を発揮
カナダ・トロント市
トモレノン氏 アーティスト


3月末、トモレノン氏の「眠れる都会(まち)の美女」と題する展覧会が、トロントで開催された。

キャンバスに描かれた美形のモデルたちの周りには、日ごろ見る夢のシーンや、心を虜にしている小物類が並び、加えて、ファッション・デザイナーが画布にドレスを縫いつけ立体感を演出した。
いとも不思議な雰囲気を持つ絵は、家庭のリビングルームに相応しいとは言いがたい。
だがそれゆえに、強烈なインパクトを与え、見るものを幻想の世界にいざなう。

カナダ人は、浮世絵の「美人画」と、現代日本のポップアートの幼少化志向の一面とがブレンドされていると評価。

トモレノン氏は稚内出身のアーティストで、その広い活躍振りは、当地のアート関係者から一目置かれている。

彼は内面の表現手段は、一つの芸術分野だけとは限らないとし、オノ・ヨーコと掛け合ってNYの9・11事件で親を失った子供たちの支援のため、彼女の曲「Let’s Have a Dream」をテーマに慈善事業展示会を実現させるなどのイベント活動にも才能を発揮している。

出身大学、展覧会の入賞暦、師事する大家など、何事もまず形から入る日本のアートの世界から見れば異色な存在だ。
結果を重視する北米では、彼の幅広い芸術活動を高く評価し、当地のカルチャー関係の新聞で、人気#1に選出された。

彼の画才を評価してくれたのは中学の美術の教師だったが、当時は音楽活動に邁進しており、とことん音の世界にのめり込んでいた。
「トモレノン」という一見無国籍風な名前は、敬愛してやまないビートルスのジョン・レノンから頂戴し屋号とした。小六でギターを爪弾き、中三でバンドを立ち上げたとなれば、ビートルスは当然の帰着だろう。

その後、縁あってギターと絵の具を抱えてカナダに来たことが、後にトロントを活動の場とすることになった。

固定的なジャンルに留まらず、興味あるものに果敢に挑むチャレンジ精神。各方面のアート、アーティストとのコラボレーションで新たな領域に挑む。

今回の展覧会も、音楽、ダンス、ファッションショーと賑やで、来年はロンドン、NY、ロス、再来年には日本で発表する。
外国での活躍が日本でどのように結実するのであろうか。


〜*〜*〜

トモレノン氏
1973年北海道稚内市生まれ。9歳のとき神奈川県茅ヶ崎に移る。幼い頃から絵を描くことが得意で、当時は漫画家になることが夢だった。また音楽にも深く傾倒し中学時代にバンドを立ち上げ、シンガーソングライターとして活躍。
96年に渡カし、音楽と絵の活動を本格的に始める。カナダで多数の受賞暦を持ち自己確立を目指している。

ゆきのまち通信 2007年7月号

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日本語文法の謎に光を当てる
カナダ・モントリオール大学
言語学者 金谷 武洋氏


金谷さんは、自分に付く肩書きとか、タイトルと言ったたぐいのものがとにかく“大嫌い”である。「一介の日本語教師でいたい」というのが本人の強い希望で、「先生」と呼ぶことを許すのは、仏系カナダ人の教え子たち(モントリオール大学東アジア研究所日本語科)のみ。象牙の塔にいて世間に疎くなるのを極力嫌うからだ。

若いときから言葉というものに特別な関心をよせ、高校で英語を、大学で仏語を極めたのを始め、そのほかのあらゆる言語に興味を示す。

その幅広い関心とあくなき研究心が、日本語文法の教え難さの原因を徹底的に調べ上げた。そしてこの3年ほどの間に立て続けに書いた著書が『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)『日本語文法の謎を解く』(ちくま新書)『英語にも主語はなかった』(講談社選書メチエ)の文法3部作である。

日本語文法の主語信仰を喝破したもので、金谷さんが説く「日本語には本来主語などはなく、述語だけで成立する言語である」とする説は、いま日本の国語界に大きな波紋を投げかけている。師と仰ぐ国語文法の大家、三上章氏(1971年没)の流れを汲んでいる。

一連の著書は、国語関係者はもちろんのこと、翻訳などを手がける人々にも広く興味を持たれる。

「またお堅い文法の本?」と思われる向きには、是非一度手にとって見ることをお勧めする。ただの文法書では終わらない、壮大な読み物として読者を引き付けずにはおかない。

金谷さんは講演などにも積極的に出席したり、また専門外の分野での通訳を引き受けるなどとにかく活動的だ。どこに行っても人の輪ができるのは、気さくで飾らず、人との出会いを大切にする人柄が反映しているからだろう。

出身は北海道北見市だが、中学卒業以来学業や仕事で世界を駆け巡っており、里帰りは中々思うようにできない。だが幼少のときから「遠くに行って自分の夢を実現するように」と進めてくれた母・チエ子さんは故郷で健在で、2人は短歌の交換で近況を知らせあう。

「ジーパンとリュックサックで空港に70路の母ひらり舞い降る」で分かるように、行動的な母親は外国語が出来ないことに躊躇などしない。数年おきに気軽にモントリオールにやってくるが、日本語が皆無の金谷さんの妻、仏系カナダ人のジャクリーヌさんとの意思の疎通には何の支障もない。

2人の間に子供はないが、妻の前夫の子供たちがすでに結婚しているので孫もいる。今もお互いがめぐり逢った日を記念日として、毎月カードを交換するロマンチストの2人だ。国や言葉が違うからこその相違を楽しみながら、「コミュニケーション」を生活信条に絆を強めている。

ゆきのまち通信 2004年5月号

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「カナダは世界で一番偉大な国」


類似する戦前の日系人
8月15日付けの当紙「終戦記念特集」で、日系アメリカ人の来し方を振り返る記事を読み、深い感慨を覚えた。国こそ違うものの、それは同時代を同じ北米大陸で生きた日系カナダ人の歩みと余りにも重複するからだ。

新天地での生活に懸命だった一世や、その親を支える2世、3世たちの生き様は、そのままカナダの西海岸に住んでいた多くの日系カナダ人の生活でもあった。
まじめな働きによってかなり成功した人たちも多かったものの、真珠湾奇襲から始まった戦争勃発は、日系移民たちの生活を一気に狂わせた。ビジネス、家屋、私財などすべての持ち物を没収され、BC州内陸部のロッキー山脈のふもとなど、数ヶ所に建てられたにわか造りの粗末な強制収容所に送られた人は2万2千人と言われる。

それまで営々と築いてきたバンクーバーを中心とする日系コミュニティーは、わずか200日余りで跡形もなく消え去ったのである。
悲喜こもごものそれぞれの物語があるが、そうした中に当時人気絶頂の「アサヒ(朝日)」と呼ばれる野球チームのメンバーだった若者たちもいた。

頭脳の野球
歴史は流れ、今この往年のチーム名を知る人はわずかになってしまった。だが1914年から41年まで「アサヒ」という名は、アメリカの西海岸にまで知られていた日系人の敬愛の的の野球チームだったのである。

メンバーは常時70名余りいて、戦前はカナダ人たちとも大いに戦った。体躯は比べ物にならないほど大きい白人の選手たちも、この小柄な日系人の若者からなる野球チームには歯が立たたないことが多かったという。

パワフルに打ちまくるなどの大きなヒットは少ない反面、スピードと巧みな技による「頭脳の野球」が決め手であった。
だがそれも戦争によって遮断された。しかし血気盛んな若者たちは、強制収容所に送られてからも、鉄条網の中でチームを作って練習をし、時には特別許可を得て地元の若者たちとの親善試合も行ったという。

白地に赤い文字で書かれた「ASAHI」のユニフォームや、野球の小道具をを収容所に持って行った若者は多かったのだ。
カナダで生まれながら、敵性国人というレッテルを貼られての理不尽な収容所での生活は、野球と言うスポーツによってどれほど癒されたか知れない。

カナダ野球殿堂入り
そんな幻のチームになりかけていた歴史を何とか後世に残そうとしたのは、パット・アダチさんという日系カナダ人の女性。92年に「ASAHI- A Legend in Baseball」という本を自費出版したことで、関係者以外も知るところとなり、カナダのナショナル・フィルム・ボードによって記録映画も作られた。

そして今年6月には、このチームが「カナダ野球殿堂・博物館」にめでたく入堂したのである。往年の選手たちは他界した人が多く、生存者は全国で10人余りでそのうち5人が元気に晴れの式典に参加した。

代表で挨拶したモントリオール在住のスガ・キヨシ(81)は、「当時このチームは日系人の希望そのもので、野球を通してカナダ社会と大いにつながりを持ちました」といい「もし今もこの国に対する忠誠心を聞かれれば、私は即座に『イエス』と答えます。カナダは世界で最も偉大な国です」と結んだ。苦渋の経験を心に秘めながらも、今住む国を“偉大な国”と言えることは何と幸せなことだろう。
聴衆から割れるような大きな拍手があったことは言うまでもない。

案内
トロントから大分離れた街にある野球殿堂・博物館だが、それは野球の試合記録を世界で初めて開始したのが、この町出身のドクター・アダム・フォードという人だったからという。また野球のバットを、以前この街にあるセント・メアリーズ・ウッド・カンパニーという会社が作っていたことなどが理由という。トロントに来たついでに、というわけには行かないが野球好きには遠出をしても見たい場所という。

The Canadian Baseball Hall of Fame and Museum
386 Church St. South, St. Marys, Ontario, N4X 1C2 6月〜10月13日まで毎日開館
大人$5、シニア$4、学生$2、家族$10
Web: baseballhalloffame.ca
OCS NEWS Sep. 26, 2003

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〜メノナイトのキルトに魅せられて始まった創作活動〜
世界的なキルト・アーティスト、泰泉寺由子(じんぜんじ・よしこ)さん


小さな布を寄せ集めて彩りよく縫い合わせ、テーブルマット、クッション、ベッドスプレッドといったものを作る「キルティング」。

今から30余年前、当時トロントに住んでいた泰泉寺由子さんは、ある日エルマイアのメノナイトの人々が創るこうしたキルトに魅せられ、吸い寄せられるようにこの世界に足を踏み入れた。以後、想像と創造を屈指した創作活動を続け、彼女独特の美の世界を創りあげた。それはキルト本来のイメージを遥かに越えたものである。

イートンセンターの家具売り場
 5月半ば、トロントのテキスタイル・ミュージアムからの招待で、ワークショップを開いた泰泉寺さんは、キルト芸術の世界では知らない人がないほど有名だ。4月半ばから2ヶ月ほどをかけて、アメリカ各地を回った展示会・ワークショップの一地点として立ち寄られたのだ。だがこのトロントは、キルト・アーティスト、泰泉寺さんがその芸術に目覚めた思い出深い街であり、今回は20年ぶりのセンチメンタルジャーでもあった。

小さい頃から花の美しさに魅せられていた泰泉寺さんは、1960年代の後半に、シカゴのフラワーデザイン・スクールで勉強をした。その後、道を極めるための修行として、アメリカの西海岸を始め、ヴァンクーヴァーなどを回りトロントにやって来た。

しかし旅の途中、余りにも雄大なカナダの大自然に圧倒され、小さな花をアレンジすることに徐々に飽き足らないものを感じ始めた。また時を同じくして、私生活でも夫の泰泉寺氏と出会い、フラワーアレンジメントとの関わりがだんだんと薄れていった。

そんな中、トロントで結婚生活を始めた1970年のある冬の日、イートンセンターの家具売り場で、生涯の仕事につながる運命の出会いを経験したのである。フロアのそこここに置かれたベッドには、何の変哲もないベッドスプレッドが掛けられていたが、その中に手作りの2つの作品が木の棚に無造作に掛かっていた。

まるで磁石に引きつけられるように近寄り、それを手に取ってみた。値段は250ドルで、当時の日本円で換算すると8万円相当にもなり、決して安いものではなかった。だがその美しさと、何よりも人の手の暖かい温もりが感じられる作品は、量産される同種のものとは大違いであった。

キルト展覧会で受賞
「キルティング」という未知のものとの初めての出会い。生来の探究心がヌクヌクと頭をもたげ、すぐに出所を確かめた。それはトロントの北西に位置する、エルマイラという小さな街に住むメノナイトの人々の作品と分かり、その週末さっそく訪ねてみた。

最初はお互いに驚くことの多い出会いであった。だが彼等との親交が深めるに連れ知ったことは、終戦直後に日本の学校給食を維持する資金に、北米の多くのメノナイトの人々が創ったキルトで得たお金が使われていたという感動的な実話だった。

もちろん、アメリカやカナダ政府からの資金も加味されての援助ではあったろう。給食は決して美味しいものではなかったが、194、50年代に学校で食べたあのコッペパンや脱脂粉乳が、一針一針縫われたキルティングのお陰だったと知ったときは、熱いものがこみ上げて来た。と同時に、自分とキルトとの不思議な出会いに、泰泉寺さんは見えない糸で手繰り寄せられているような力を感じたのである。

それ以来、カナダやアメリカで行なわれる、ありとあらゆるフェスティバル、収穫祭、展示会、美術館に足繁く通い、この世界にのめり込んでいった。その努力が実り、79年に『カナダ・オンタリオ・クラフト‘79』に出展した作品がプロビンンシャル賞を受賞した。「カナダの人には決して真似出来ないユニークさが見事で、エスニックの人の素晴らしい感覚が十分に生かされている」と賞賛された。

義父からのアドバイス
その作品は、わずか1m=1ドルの生地を何種類か買って創ったものであった。だがこの評価は、自分のなかにある日本人としての血脈の疼き、それに対する抗しがたい熱い思いに直面するきっかけを作ってくれた。

次々に生まれるデザインやアイディアを追求するには、日本やアジア的な材料が手に入りにくいカナダにいては無理と悟り、家族を説得して80年に日本に帰国した。そしてすぐに「ジンゼンジヨシコ・キルトグループ」を結成し、早速に自分の夢を実現させるための第一歩を踏み出したのである。

日本に帰った直後に、こうして迷うことなく一直線の道を歩めたのは、当時高知大学の美術科の教授をしていた義父の、的確なアドバイスに負うところが多い。アートのみならず、人生のすべてに見識の深かった義父の口癖は「人生に新たなクリエーションが生まれるのは際学(きわがく)による」と言うものだった。つまり国と国、人と人とが触れ合うその接点には、前向きなエネルギーの爆発が生じ創造の世界が広がるという考えである。
その人生観を裏付けるように、義父の行動範囲や交友関係は広く、特に終戦を迎えたインドネシアと深いかかわりを持ち、多くの学生の相互交流も行なっていた。

また人との出会いについては、80年代に日本を代表し、世界のテキスタイル・アーティストとしてその名を馳せた新井淳一さん、哲学者の今井俊博さんなどとの邂逅も、自分を大きく育ててくれたと思っている。

バリ島にスタジオ
現在、泰泉寺さんは創作活動を、バリ島と京都に住み分けて行なっている。

義父のアドバイスを受けて、バリ島にスタジオを構えたのは89年で、3年の歳月を掛けて創りあげた。回りの自然を出来るだけ壊さないことを第一に心がけ、椰子の葉で屋根を葺き、山から切り出した石を使い、海底から引き上げた岩を配置し、環礁からさんご礁を拾い集め、隅から隅まで丁寧に作り上げた家は「グラスハウス」と呼ばれている。

そこでの一日は地上に落ちたジャスミンの花集めから始まる。そしてリリグンティ(ほうの実)を焚き、萱ぶき屋根をいぶし、蚊や羽虫を追う。また南国の一日が終わり、夕暮れの燃えるような残照に輝く椰子の葉が、暮れなずむ空にくっきりと浮かび上がる頃になると、家の隅々にキャンドルをともす。

自然に身をゆだね、とおやなか時間の流れを感じながらの生活からは、創作意欲がとめどなく沸き上がり、次なる作品の構想が浮かぶ。大自然と人との安らかな交歓によって生まれる芸術こそが、泰泉寺さんのキルトの世界なのだ。

自然の中からすべてを
テキスタイルに関連するアーティストが行き着く先は、作品のすべてを自分の手でという究極の美の追及であろう。泰泉寺さんも例外ではない。つまり、すでに出来上がった布を使うのではなく、糸から自分好みのものに染めあげ、それを自分の手で織る。

それには、バリ島の自然に生息する数々の植物が大活躍をする。その代表的なものは「ソガ染料」で、ハジュラ(黄)、ジャンバル(茶)、テンギ(紅)といった木々が使われるが、群生する青竹も白い糸を更に深みのある白に染めるのに欠かせない。

細かく割った幹や木の皮を熱湯に入れて焚き、煮汁を漉して使う。染め上げた後の糸や布は、赤道直下の風通しの良い木もれ陽の元で干して仕上げる。
息を呑むほどに美しい泰泉寺さんの数々のキルトの中でも、「エンジニアード・キルト(Engineered Quilt)」と呼ばれる一連の作品は、思わず頬を摺り寄せたくなるほどの優しい輝きを放っている。

出来上がりの想像が難しい小さな布を集めての作品と違い、糸の染色の時点から仕上がりの形を頭に描き、制作に取り掛かることからこの名称をつけた。時には4メートルもの長い布を織り、一点の芸術作品を作ることもある。そんな布を大きく広げて構想通りに縫い上げるには、アメリカ製の特性ミシン(写真)なしには用をなさない。

ひたすら未知の物を探求し、見事なまでの創造の世界をクリエイトした泰泉寺さん独自の美の世界が、今後どの方向に舵取りされるのか。楽しみに待つファンは多い。

泰泉寺由子(じんぜんじ・よしこ)
1965年、京都女子大学卒業。68年から北米に住み80年に帰国。‘79年に「カナダ・オンタリオ・クラフト‘79」を受賞。‘80年に「ジンゼンジヨシコ・キルトグループ」を結成。‘91年に「スタジオ・ジンゼンジGRASS HOUSE」をバリ島に設立。
日本に帰国以来多くの展覧会、個展を開催。著書多数。最新著は英語の「Quilt Artistry」(講談社)。06年完成のMuseum of Arts & Design (40 W 53rd St, NY)に、手元の全作品が永久保存される。

日加タイムス:June 20,2003




無限の想像の世界にいざなう
カナダ・トロント市
アーティスト 飛鳥童さん


飛鳥さんの絵を初めて見る人が例外なく感動するのは、その鮮やかな色彩感覚と、繊細な筆使いだ。と同時に、キャンバス全体に漂う空想と現実の世界が絡み合った、おとぎの国に身を置いたような作風に、誰もが尽きぬ興味をそそられる。

絵の対象は動、植物、子供から老人までの人間、はたまた天使や雷様に至るまでと幅が広い。
どの絵からもふつふつと醸し出されるのは、作家の生きとし生けるものへの深い愛情だ。

秘めているメッセージは「自然界にはいろんな素晴らしい発見があり、果てしない想像の世界で満たされている」というもので、こんな大切な地球を汚してはいけないとの思いに共感できる。
皇室を始めとして、多くのファンがいるのが容易にうなずける。

見る者に夢や希望を与えてくれるこんな作風は、カナダに移住した後に生まれたものである。
日本国内や欧州を旅した後に、広大な国土を有するカナダに来て、自然にどっぷりと漬かり、その息吹を感じる心の余裕が持てたことで新境地を切り開いた。

初めての絵本はトロントの街中にある公園を題材にした「Who Goes to the Park」。
四季それぞれの公園の情景を細かに観察し、想像力を最大限に屈指し、そこここに温かいユーモアを散りばめた作品群である。

これは世界各国で数え切れない賞を取り、飛鳥さんの名声を不動のものにした絵本だが、「僕はスケッチから描き始めませんでした」という。
季節ごとに何度も公園に通い自分の五感に感じるものを捉え、臭いを嗅ぎ、空気を吸い、想像の世界を広げて作品を創りあげた。

それは「自由な発想を尊び、多様性を受け入れるカナダ社会のあり様が強く影響している」とも。
最新作の絵本は、高円宮妃殿下の書かれたおとぎ話に絵を描いた「氷山ルリの大冒険」。
去年急逝された高円宮殿下はカナダとの関係が深く、生前バッフィン島、グリーンランドをご夫妻で訪問された折り、妃殿下がお話の構想をまとめられたものだ。

飛鳥さんは仕事を引き受けてから、自ら北極近くに出かけ、氷山や海の色、生息する周りの動物たちを自分の目で確かめた。
新年明けに、今迄の幾つかの作品を収集した「IMAGINATURE」が中国でも発刊された。

去年訪ねた上海の学校の子供たちが、空気汚染のために虹を見たことがないという事実にショックを隠せない。飛鳥さんの作品がますます意味をなす。

************

あすか わらべ
本名、増田武。1944年香川県高松市生まれ。県立高松工芸高校図案科在学中から絵画展に積極的に応募し、受賞多数。
73年に渡欧、79年にカナダに移住。「氷山ルリの大冒険」が13カ国語、15カ国で発売され、影絵劇も日本・カナダで大好評。

今後は中国との関係が進展すると予想している。
創作に対し世界各国から無数の賞を授与されている。
ゆきのまち通信 2003年3月




日本人母の引き起こした幼児放置死事件(カルガリー)に寄せて


本当に月日が立つというのは早いものだ。あの日からもう一年近くの歳月が流れている。

そう、あの日とは、カルガリーの幼児放置死の犯人である藤井理絵さん(24)の母親に面会した日のことである。
それは理絵さんの出身地である、山口県の津和野と言う町での出来事だった。

私は去年の秋、母のトロントでの22年間の生活を綴った拙著、「カナダ生き生き老い暮らし」(集英社)の日本での反響に伴って、山陰、北陸、東京など10ヶ所ほどでの講演会にご招待いただいた。

その旅はまず、10年来の友人が「是非わが町で!」と誘ってくれたことで、日本海に浮かぶ隠岐の島にある西郷町という町の、町立記念日を皮切りにスタートした。

その後本土に渡り、神話で有名な「因幡の白兎」で知られる宍道湖のある街、宍道町で2回目の講演が行なわれた。ここは日本海に面した町だが、次の宇部短期大学で学生に向けて講演するには、山口線に乗って中国地方を横切り、瀬戸内海の宇部市に向うのが一番の近道である。

これは余り知られていない鉄道路線だが、ここに津和野という街があるのだ。以前からこの「山陰の京都」と言われる昔ながらの趣がある町には、一度行って見たいと思っていたことで、こんな日程が組めることを私はとても喜んだ。
だが町の代名詞に恥じないこの地を訪れたのは、ただそれだけの目的ではなかった。

去年の6月以来、こちらの新聞にたびたび登場している、子供と頬を摺り寄せて笑っている日本人女性、カルガリーの幼児放置死事件の犯人、藤井理絵さんが生まれ育った街であることを知っていたからでもあった。

私に何が出来るかは分からない。だが同い年の娘を持つ身として、またカナダに住んでいる者として、何か居ても立ってもいられない気持ちになり、一度お会いしてお話をしたいと思ったのだ。

外国に娘を一人で送ることなど今時何も珍しいことではない。だが親にしてみれば、例え元気にしていることは分かっていても、常に心のどこかで「大丈夫だろうか?」という思いが交差するものだ。
加えてその異国の地で、娘が事件を起こし刑務所に入っているとなれば、親の気持ちがいかばかりか想像に余りある。

しかし私には母親に会う手がかりはなかった。町に着いたものの「さてどうしたものか?」と考えたすえ、やはり警察署を訪ねるのが一番だと思いあたった。ダメモトという気持ちで来町の理由を説明したところ、母親の勤務先の電話番号を教えてくれた。
Mbr> 近くのバス停にある、冷たい木のベンチに腰掛けて待つこと数分。急ぎ足で現れた理絵さんの母親は、想像よりお若く小柄な方だった。冬の訪れの近い冷たい風に胸元の襟を掻き合わせながら、それからどのくらい話し込んだだろうか。

外国に娘を送っている一母親の不安。勉強していると思っていた娘への期待。事件が明るみに出てからの家族のそれぞれの思い。心の重い津和野とカルガリー間の何度かの旅。刑務所の娘から掛かる長距離電話。マスコミの心ない対応………。

当然ながら、まったく見ず知らずの初対面である私への警戒心は持ちつつも、言葉を選んでゆっくりと話すその語り口は、子育てに一生懸命な、ごく普通の日本の母親のそれ以外の何ものでもなかった。

理絵さんは高校時代から特に英語が好きで、生徒会長まで勤めた成績優秀な生徒であったと言う。
きっと彼女は5年前、あの茶色の光沢のある石州瓦(せきしゅうがわら)を乗せた家々が並ぶ町を後にした時は、いつかこの町に戻るときには、英語をマスターして意気揚々とあの盆地の駅に降り立とうと思ったに違いない。

もちろん彼女に責任がないなどとは言わない。また2人の子を放置死させた罪は当然報わなければならない。だが9月9日の判決で裁判長が言うように、子供の父親の「怠惰で無責任な態度が家族の悲劇を招いた」ことは間違いがなく、それによって理絵さんの人生も屈曲し方向を見失ってしまったのだろう。

精神的、肉体的な暴力も日常的にあったと報告され、ドメスティック・ヴァイオレンスの恐ろしさを感じる。ドラッグも絡んで、暴力によって打ち負かそうとする男性とともに住む恐怖はいかばかりだったことか!

事件が発覚してからの日本の週刊誌には「鬼母」と言う言葉が躍り、今回の裁判の結果でまたゴシップが飛び交うことだろう。
CP電によれば8年の禁固刑のうち5年半はカルガリーの刑務所で服役し、後の2年半は日本に送還されてからということらしい。

裁判所で理絵さんは、両親と目を合わせるのを避けていたとも報告されている。すでに何度もカルガリーに脚を運んでいるご両親は、今回も判決にともないはるばる日本からやって来たのだろう。おそらく万斛(ばんこく)の涙をためもしたのではなかろうか。
だがその二人に理絵さんが目を会わせなかったという報告に、私はかえって彼女の人としての再生に望みがあるような気がしている。

「だから日本の若い女の子は!」とか「安易な恋愛の結果が云々」という言葉もそこここで耳にするが、そう言って非難したところで子供は生きて戻っては来ない。罪の深さを思うからこそ、両親の目を見ることが出来なかったと解釈したいのだ。

今後の理絵さんには総身からの反省を促すと同時に、罪の償いの後に待つ人生に是非望みを掛けて欲しいと思う。
不幸にも望まれた出生でなかった幼い2つの命の冥福を心から祈りたい。

日加タイムス Oct.20, 2002




舌のピアスで脳の病気に?


フランスで舌のピアス
おしゃれとはちょっと人と違うかっこうをして、ちょっと目立ちたいと思う心理である。この思いは老若男女、洋の東西を問わないのは周知の通りだ。
特に若い時には、多少の危険や痛みはあっても、おしゃれのためなら冒険をしてみたいものである。その最たるものが、イレズミであり、体中に刺すピアスではなかろうか。

今時はもう耳に鈴なりのイヤリングがぶる下がっていようが、鼻や眉毛の辺りに輪っかが揺れようが、ヘソ出しルックのお臍に金属が刺さっていようが、余り驚くことはなくなった。
だが見ている方はいまだに「まあ、さぞ痛かったでしょね」とか、「そんなことまでしてご苦労さんね」といった思いが交差することは確かだ。
写真が掲載できず残念だが、右耳の上を「?」マークの形に大きく切開したあとを、医療用ホチキスで止めて傷口をふさいである)の女性も、ピアス大好きの若者の1人で、耳は言うに及ばず、お臍や乳首にも金属が揺れるワイルド・ファッションを楽しんでいた22歳の大学生。

去年の夏友達とフランスを旅行したさい、舌のピアスを思いつき今までと同じように気軽に、バーベルのような形の小さな金属をピアスパーラーで差し込んでもらった。
もちろん毎日の消毒は欠かさなかったものの、2、3日の腫れと痛みの後に悪臭のあるウミが出てきたため、すぐにピアスを取りはずし傷は治ったかに見えた。

ところが一ヶ月ほどたって大学に戻った彼女は、ある日今までに経験したこともない、ずきずきと差し込むような頭痛に襲われたのである。そしてまもなく手足がしびれ、目まいや嘔吐とともに、発作を起こして病院に担ぎ込まれたのだ。

スキャンの結果、腫瘍かあるいは癌が肥大しているのではと診断されたが、モルヒネを打ってもきかない頭痛は増すばかり。そのうちに昏睡状態におちいり、両親は最悪の事態を予想して牧師さえ呼んだのである。

だが緊急の手術で、人間のバランス感覚をつかさどる小脳に発見されたものは、ウミが一杯のグリーンピース大のできものであった。
脳手術というものはいつの場合でも大きなリスクを伴うものだが、ラッキーにもすべてが順調に運んで、病院では彼女を「奇跡の患者」と呼ぶほどに快復した。

現在は脳手術後に起こりがちな発作を防ぐ薬を飲んではいるものの、頭髪も元のように生えて傷をカバーしている。
ただ切り取られた頭蓋骨の一部を元に戻す手術は、一月半ばから2,3ヶ月先に延期された。傷の腫れが完治されていないからである。

口内菌と同じもの
ラボに送られた腫瘍のウミから発見されたものは、口内で一番多く見られる連鎖状球菌と同じものであった。となると100%確実と断言はできないまでも、ピアスの化膿が原因と予測される。
口内は温かく、しかも適度な湿っけが保たれているため、バクテリアの繁殖にはもってこいの環境だ。また舌には無数の動脈が走っているため、もし菌が入った場合、それはすべて血液のシステムに入り込み、心臓から体内に流れ当然脳にも送り込まれるのである。

しかしこれほど舌のピアスがファッション化し、そこからの感染度が高い割には、今までに余り問題は起こっていない。もちろんこの女子大生はまれに見るケースである。
むしろ金属が当たって歯が欠けたり、歯茎が押しやられて後退するなどの方が大きな問題ということで、カナダの歯科学会では「舌のピアスは危険」という信号はまだ出していない。
命拾いした彼女は「正直言ってピアスに未練はある」とはいいながらも、「もう2度と危険は冒さない」と断言する。

また「自分の経験を押し付ける気はないけれど、私のような例があることを知ってほしい」とやんわりと警告している。

OCS NEWS: Februay,2002




仏語系カナダ人とは


英語系カナダ人との違い
日本のように小さな国でも、大阪人と東京人では気質が異なることは、よく知られている。
となれば、世界で第2に大きな面積を誇る国に住むカナダの人々を一括りにして、「カナダ人とは」と語ることが出来ないのは容易に想像が付くだろう。 出身地によって生じる考え方の差異は、それぞれに興味深いものだ。

カナダも西部のBC州と東部のニューファンドランド州とでは、2つの国かと思うほどに異なり、またカナダ10州のうちで、唯一仏語を第一言語と定めているケベック人気質は、英語圏の人々と一味違う。
この夏モントリオールのレガー・マーケティング会社が行った「ケベック人の生活意識」の調査結果にも、それはくっきりと現れている。

フランスの流れを組む仏語系の人々は、あまり他人に干渉せず、人々の自由裁量を容認する傾向が強い。当調査会社のヴォーク副社長は、「人に迷惑を掛けない限り、他人が何をしても自分には関係ない」という思想が、仏語系カナダ人の根底にはあると分析する。
例えば離婚を例に取ると、現在その行為を「不道徳」と考えるのはたったの23%。キリスト教の影響で数世代前までは、「救いがたい罪」と教えられていたことを思えば、大変な変化である。

また同性愛は25%、堕胎は36%、16歳以前の性交渉は45%が良くないと考えるとの結果だが、どれも50%以下の数字でその寛容度が伺える。
調査は1011人のケベック州住民を対象に行われたが、彼らがタブーと考えることのトップは、「妻や女性を殴ること」で96%。「盗み」「児童嗜愛」がそれに続いている。

加えて「自己誇示の強い人」は、「ギャンブル癖」のある人と同じように受け入れがたく(76%)、「浮気」は、「サド・マゾ行為」と同等に良くないこと(73%)と見ている。
性や性行為に対して無分別にオープンかといえば、一概にそうでもなさそうなのが面白い。また「お金を貯めること」と「人生を楽しむこと」のどちらの方がより重要か、の問いには、ほとんどが後者を選んでいる。
全体の調査結果を見ると、どのカテゴリーでも仏語を第一言語しないケベック人は、もっと保守的という結果が出ているというのも興味深い。

文化事業に理解
路上一杯に寝そべる裸の男女を被写体にするので有名な、NYの写真家スペンサー・テュニック氏が、春のモントリオールでのセッションを終えての感想は、「世界中で一番仕事がしやすく、最も問題のない撮影だった」である。

また現在モントリオールのThe Montreal Museum of Fine Artsで開かれている「Erotic Picasso」展は、題名の通りかなりきわどい展覧会だ。しかしキューレーターは「反対のデモもなければ、ガヤガヤ言う人は一人もいない」といい、「アメリカだったらこの手の展覧会はプロテストが多く不可能でしょう」と付け加える。

一方オタワ(オンタリオ州ではあるが仏語は英語と同等の割合で使われている)のThe National Gallery of Canadaでも、「Modernism in the Making」と題する、グスタフ・クリムト展が華々しく開催されている。独特の耽美的世界を表現する回顧展は、北米で初めての大規模な催物である。(両展覧会:9月16日迄)
ケベック州が文化・スポーツなどに非常に理解があり、その方面への活発な活動を展開しているのは、こうした州民のおおらかな気質によるところが多い。だが理由はそればかりではなく、ケベックに割り当てられる国からの援助金の多額さにも由来する。

英語圏の他州から見るとこよなく不公平なのだが、連邦政府の文化事業資金の84%がケベック州に流れる仕組みになっている。
予算関係者は「えこひいきではない」と強調するものの、あの手この手で予算引出しの知恵を絞るのが上手なのも、また仏語系カナダ人の気質のようだ。

OCS NEWS Aug.31,2001




シェークスピアの肖像画


400年前の作品
世界中に知られている、かの有名な劇作家、ウィリアム・シェークスピア(1564−1616)の肖像画といえば、ハイカラーの服を着た、禿げ上がった額の生真面目な顔(写真右)のものか、またはロンドンの国立肖像画ギャラリーに収められているもの(写真左)と相場は決まっている。だが残念ながら、両方とも生前に描かれたものではない。

ところが最近、オンタリオの地方都市に住むある家族が、当家に400年間、12代に渡って受け継がれた、生前の肖像画と思われるものを一般に公開した。
画家はジョン・サンダース(John Sanders)という名で、当時シェークスピアの脚本を上演していたグローブ劇場で、背景の幕などをペイントしていた人である。また現存するプレイビルにも彼の名が載っており、舞台では端役などもこなしていた人物だ。

著作権の関係で、ここに写真を掲載できないのが残念だが、39歳のシェークスピアの顔には、いたずらっぽい笑みを含んだ目に赤味をおびたふわふわの髪と、余り濃いとはいえないヒゲが見える。
襟元まできちんとボタンを締めた前開き式の上着の襟は、左右に開かれていて、格式ばった感じのものではない。一般に植え付けられている、シェークスピアのイメージをくつがえすに充分なものだ。
サイズは43cmx32cmと小ぶりで、オーク材の上にテンペラ画法(純色素に卵の白味を混合)を用いて描かれており、裏側には「Shakspere, Born April 23 1564, died April 23 1616, Aged 52, This likeness taken 1603, Aged at the time 39 ys」と古くなった紙に書かれているのが判読できる。

名前のスペルが異なるが、これはシェークスピア自身が、当時自分の名前をこのように綴っていたという。すでに「リチャードV世」「真夏の夜の夢」「ロミオとジュリエット」「ハムレット」などを発表し名声を得ていたころである。

本当にシェークスピアか
驚くのは400年以上も昔の作品が、特別な保存もされずにいたにもかかわらず、多少の虫食いが見られる以外、余り傷みもなく現存していることだ。
持ち主の弁では自分の子供の頃は、紙にくるまっておばあさんのベッドの下に置かれていたり、時には無造作に壁に掛けられていたという。

このオーナーの先祖は、今世紀初めにイギリスからカナダに移住したが、他にも300点ほどのアート関係の作品を持参している。代々かなり裕福な一家であったため、1909年に一度本国に持ち帰り、その道の専門家に鑑定を依頼した。しかしその時は、描かれた時代などが偽りという結果が出された。

それから1世紀。今度は12代目の現在の持ち主が、退職を機に莫大な時間と費用を費やして鑑定に東西奔走した。もちろん最新の科学技術を屈指してのものだが、結果はオーク材もペイントも裏の紙も、すべて1600年代前後に間違いはないというものである。
すわ、若き日のシェークスピアかと思いたいところだが、問題はこれが本人だとする決定的な証拠がないのである。つまりそうした文献がどこにも残っていないのだ。

しかしもしこれが本物で生前に描かれたものであれば、もちろん大変に価値があるうえに、想像を絶する値段になることは確実である。
持ち主は一日も早く何らかの手がかりをえて、「若き日のシェークスピア」として承認されるのを今心待ちにしている。

OCSニュース  June 8,2001




トロント日系文化会館新館長、ジェームス・ヘロン氏


歴史的できごと
各種の催し物や会合など、ことあるごとに移住者や日系人たちが集まる場所。トロント日系文化会館の新館長が一ヶ月半ほど前に選出された。長い間空席だったポジションだが、新館長の顔を見て日系コミュニティーの人たちは、一応に「おや?!」という思いを抱いた。

ジェームス・へロン氏(42)は、トロント生まれ、トロント育ちの生粋のカナダ人だが、写真でお分かりのように「日系」という前置きがつかない。
1963年に会館が創立されて以来、初めての日系人以外の館長で、これはコミュニティーにとって歴史的なできごとである。

当会館は2年ほど前に手狭になった旧館を閉じ、3ブロック余り離れたところに移設した。以前に比べ約3倍の広さがある。
旧館は終戦後に強制収容所を出た日系人たちが、トロントに移動しその心のよりどころとして創立したのが出発点になっている。

当時の日系人たちは、できるだけカナダ社会に同化するために、日本語を捨てた人も多い。また目立つことを避けるために一箇所に固まらないようにと、日本人街も作らなかったといわれる。だがやはり同胞が集まる場所が欲しいという思いはつのり、人によっては、住む家を抵当にしてまで資金を集め建設したという歴史がある。

モザイク文化主義を国策とする今のカナダからは想像するのは難しいが、そうした時代の過酷な社会的背景を思うと、あたらおろそかにできる場所ではない。移設はしてもそのスピリットは受け継がれている。

時代の潮流
その館長に21世紀の初頭にあたり白人のカナダ人が選出されたことは、「時代の潮流というものをしみじみと感じる」と高齢の方たちは言う。
これは自分達が体験したことにたいして、今も怨念を持っているからでは全くない。カナダ政府は1988年に自国の非を認め補償を行った。しかし歴史に翻弄されながらも、日系人の粘り強さと誠実さで生き抜いてきたお年よりには、いろいろな意味で感慨ひとしおなのである。

一方、現在トロント社会に根を下ろし生活している日系2、3世あたり以降の人々にとって、ヘロン氏の選出はとてもポジティブに受け取られている。
日系人同士の集まりではどうしても古いしがらみから抜け出せず、狭い視野になってしまう。派閥などにも縛られることなく、もっとカナダ社会へのアクセスを可能にして、新たな道が開けるのではないかという。
3500人のメンバーの内半分以上が日系人でないことを思えば、当然の期待と言えよう。

日本との出会い
会館の位置付けを、「文化面ばかりではなくビジネス方面にも発展させたい」と語るヘロン氏の日本との出会いはかなり遅く、大学を終え銀行に仕事をしていた25歳のころだ。スポーツ好きの氏が、あるとき西洋のどの競技とも違っている剣道に出会い、会館の門をたたいたことから始まった。

それまでほとんど知らなかった日本という“不思議の国”への興味が次々に湧き、手がかりとして英語教師の職を得て、一年のつもりで出かけた日本。その滞在は11年という年月になり、日本語習得にともない、日加間の文化及びビジネス・コンサルタントとして、双方の国で政府や民間の大会社とかかわる仕事をするようになった。

2つの文化の狭間で学んだ相互理解の重視性を身を持って体験した氏の経歴が、今後の会館の運営に大きく反映してくるであろうことは疑う余地がない。
10年以上も交際があり、英仏語に堪能な“薩摩おごじょ”の妻とは1月にハワイで結婚。夏のトロントにやって来るのを氏はもちろんのこと、コミュニティーの人々は心待ちにしている。

OCSニュース March 16,2001




身障者向けのコンピューター・ソフトを作る車椅子の研究者
横田恒一さん


第2次世界大戦で障害を負った兵士たちにイギリスのL・グッドマン医師が、「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」といったのはとみに有名である。

もちろん言うのはやさしいが、その残された可能性に人生をかけて生きることの難しさは、おそらく健常者の想像をはるかに越えるものだろう。
地道な努力を重ねながら、一歩一歩自らの道を切り開き、障害者用コンピューターソフトの開発の日本語化に情熱をかける車椅子の研究者、横田恒一さんを紹介しよう。

海での事故
時は25歳の夏。千葉大学の大学院1年生だった横田さんは、専門分野である工業化学科に席をおき、機能性高分子の研究を行っていた。素人にはわかりにくい学問だが、これは植物が作る光合成についての研究で、将来は印刷会社に勤め、ポリマーなどの高分子関係の研究をする化学者としての道を歩く夢を持っていた。

ところが88年の夏、研究室の合宿で海水浴に出かけて高波に巻き込まれ、気がついた時には頚髄損傷者(首の脊髄損傷)になっていた。本当に一瞬の出来事だった。
それからの2年間は、来る日も来る日も窓際にある病院のベットから空と雲ばかりを見る生活を余儀なくされた。当然ながら「どうしてこの自分が?」という思いに打ちのめされ、落ち込むことの多かった日々。

しかしやっとリハビリが可能になり、他の患者たちとともに訓練に励むようになって周りを見渡すと、年齢も性別も障害度もさまざまな人々が沢山いるのに気が付いた。そして自分よりもっと重い障害を背負う人たちが、賢明に社会復帰を目指して生きる姿に出会い「力を与えられました」という。


その後車椅子の生活が始まってからは、とにかく中断していた大学院を終了し、就職することに決めた。これが事故いらい自分にかかわってくれ、理解を示してくれた周りの人たちや家族に対する恩返しと思ったからだ。だが卒業後の現実はそんなに甘くはなかった。教育と能力は人並み以上でも、重度の障害者を雇ってくれる就職先は皆無だったのである。

そこでさらにコンピューターの知識を身につけ、情報処理の国家資格を取得し再度就職前線に身を置いた。しかしここでも壁は厚く20以上もの会社に応募したものの、やはり結果は同じことだった。

だが諦めきれない横田さんは、それでも希望を捨てずにいたある日、国立身体障害者リハビリテーションセンター研究所の募集を知り飛びつくように応募して「幸運にも就職することができました」という。

ここは身障者に対するリハビリを、一貫した体系のもとに総合的に実施することを目的にしたセンターで、更正訓練所、病院、研究所などが併置されている。
横田さんはリハビリテーション・エンジニアとして、福祉機器開発部に籍をおき重度肢体不自由者へのコンピューターの応用と研究を仕事とした。

人生のモットーを「どんなに重い障害があろうとも、できうる限り社会参加をして前向きに生きること」としている横田さんにとって、コンピューターの改善は永遠の研究テーマである。その行動範囲に制限はあっても、こうした地道な研究の結果うまれる先端技術に助けられ、未知の世界が開かれる喜びを感じる障害者の数は計り知れない。

ダスキン奨学金
ここで働くこと4年あまり。ある日「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」の存在を知り、海外での経験を積むことに意欲を持つようになった。
これは1981年に国連が定めたに、掃除器具の会社ダスキ“国際障害者年”ンが設立した事業で、障害者の社会への加と平等”を目指すことを主“完全参旨に、「海外の進んだ福祉の現状を学び自己研鑽に励むチャンスを提供する」という奨学金制度だ。

外国に派遣されて各分野で研修を積むことによって、将来日本の地域社会のリーダーとして活躍することを目的にしている。その範囲は多義にわたり、障害者スポーツ分野、音楽や絵画などの芸術分野、障害者の街造り、環境改善の分野に取り組みたい人などいろいろで、もちろんコンピューターシステムを勉強したい人も含まれている。

横田さんの希望は北米の研究機関でコンピューター・アクセスとコミュニーケーション機器に関する知識をより深め、できれば重度障害者たちの就職状況や形態、また使用機器についての調査なども行いたいというものであった。
学歴、経歴、そして前向きな情熱が買われて合格し、トロントに来る機会が与えられた。

ブロアービュー・マクミラン・センター
そして今年の1月、凍てつくトロントの空港に降り立ち、ノースヨークにあるブロアービュー・マクミラン・センター(Bloorview MacMillan Centre)での研修を開始した。
ここは、事故または生まれながらに各種の障害を持つ19歳までの子供のリハビリセンターで、トロント郊外のもう一つの施設を含め、年間5000人ほどの患者を扱っている。

例えば交通事故で頭脳障害をきたし身体的機能を失ったり、視聴覚に問題があったり、学習障害、神経系統に問題がある場合など、それこそありとあらゆる障害に向けてその治療を行い、また各種のリサーチを通して先端医療開発研究も進められている。
運営は連邦政府が中心になって行なわれているが、その他各方面からのグラントや開発した器具器械などをセールスすることも大きな資金元で、すでに100年の歴史を誇る研究所である。

ここで横田さんは、オンタリオ・リハビリテーション・テクノロジー協会のコミュニケーション・チーム・リーダーであるフレイザー・シエィン博士の研究室に籍をおき、ヴィジティング・サイエンティストとして毎日コンピューターに向かっている。
今取り組んでいる研究は、こちらのチームで開発した「WordQ」(単語予測ソフト)と呼ばれるものの日本語化である。これは非常に複雑かつ難解なソフトで、もちろん高度なコンピューター知識がなければ困難な研究開発だ。

例えば一つの例を挙げると、普通のコンピューターの場合は「はな」と打ち込むと、同じ言い回しの言葉である「花」「華」「鼻」など数個が用例として出てくる。これが身障者用の単語予測ソフトの場合は、「は」と打ち込んだだけで名詞、動詞、形容詞、副詞などいろいろの言葉や言い回しが登場する。

つまり「話す」「走る」「始める」「橋」「履物」と言った具合に、日常生活の中で使用頻度の多いものから出てくるである。もちろんこれは一つの例であるが、もっと複雑な機能を通して、身障者により使いやすいものが開発されようとしている。これが横田さんの研究だ。

一問一答
≪カナダは障害者には住みやすい国と考えられてますが、実際に生活しての感想は?≫
私もここに来るまではそう考えていましたが、車椅子で生活をして見ると、予想していたよりはそうしたアクセスが少ないのに驚きました。期待とのギャップがあったのです。
例えばトロントの地下鉄でも全体の1/10くらいの駅にしかエレベーターがないのです。日本でも最近できた公園とか街は随分と車椅子のアクセスがあります。
交通機関の使用はまだ一人ではできませんが、でも駅員さんが抱えて助けてくれますね。しかしこちらでは絶対にそうしたことはないです。でもここは僕のような障害者が暮らすことができる住宅環境が整っている点は日本とは違います。

≪ここいらっしゃる間に遠出もなさいましたね?≫
はい。フロリダで開かれた学会に出かけました。また新移住者の方たちが開いているウェブサイトで知った、ワー−キングホリデーでトロントに来ている23歳の高梨哲弥さんという方がボランティアしてくれて、10月にモントリオールに、11月にはワシントンDCとNYにもご一緒してもらいました。

≪ご旅行は如何でしたか?≫
ワシントンDCは素晴らしかったです。すべての公共施設や交通機関が車椅子対応になっていました。あんなにアクセシブルな街は初めてです。
でもモントリオールへ行ったときは、古い街のためどこも段差があり、また交通機関も車椅子が乗れるようなものはなく残念ながら余り観光らしいことはできませんでした。またVIAで行ったのですが、車椅子の設備がある電車かどうかちゃんと確かめて予約を入れたのに、予定の電車にそれがなかったりで、次の電車を待たなければなりませんでした。

≪そうした手違いなどは良く起こりますか?≫
それはしょっちゅうです。例えばTTCの車椅子用のバスなどは、ほとんど時間には来てくれません。また車椅子用のタクシーを頼んでも普通の車が来て乗れず、そのまま道に取り残され「さて、どうしよう...」と思いつつ約束の場所には行けないなんてこともあります。
日本だったら、そんな場合来た運転手さんが手配してくれたりしますが、そうした親切はここでは期待できません。
また毎日来てくれる介護者はエスニックの方が多く、日本の常識が通らないと思うことも多く、理解するのに苦労することもあります。

≪意思の疎通が上手くいかない時はフラストレーションが溜まるでしょうね?≫
はい。でも最近は思うようにいかにことが当たり前だと考えるようにしています(笑)。もちろんそうしたことが続くと疲れますね。そういう時は何もしない、何も考えないことにしてただ寝ることにしています(笑)。

≪いつご帰国ですか?≫
母と弟が12月20日に日本から迎えに来てくれますので、シカゴで少し時間を過ごし、日本には31日に帰ることになっています。

≪今後の更なるご活躍をお祈りしています。≫


インタビュー後記
横田さんにはこのインタビュー以外にも何回かお会いした。その度に私は健常者であることに思い上がるまいと自分を戒める。やさしいものいい、そしてしっかりと目線を据えて将来を考える真摯な人柄は、もちろん生まれ持ったものだろうが、人生の苦難を乗り越えさらに深くなったのではとお見受けする。「ただ自分のしたいことをやってきただけです」と淡々とおっしゃる。それを穏やかに口にできる心境になるまでの心の過程に思いをはせる。

日加タイムス 2000年11月23日




国連特別総会「女性2000年会議」
平等へのゴールも目指す女性たち


大阪のWWINの活動
先月初旬にNYで開かれた国連特別総会「女性2000年会議」に出席した大阪の女性たちの応援に、トロントのハーモニー・インターナショナル・クラブから数人が出かけた。
今回の国連特別総会は、5年前に北京で開かれた世界女性会議で、各国政府が決議した事項がどの程度実現できたかを検証し、引き続き今後の政策指針にするのが目的であった。

日本からも多数参加したが、開会式のあった国連のハマーショルド・プラザでも「私は私を生きたい」と日本語で書いたバーナーを掛けて歩く女性も見られ、じわじわと広がっている日本のウーマンパワーの一端を見る思いがした。

滞在日数の関係で、トロント組は実際の分科会などのセッションには出席出来なかったが、この大阪のWWIN(ワーキング・ウィメンズ・インターナショナル・ネットワーク)のメンバーに加え、英国やNYで働く日本女性の代表などとも合流し、日英米加に住むそれぞれが、その国で抱える問題について話し合える機会を得たのは実に興味深かった。
もちろん国連特別総会に集まった多くの発展途上国の女性たちのように貧困、教育の平等、理不尽な結婚制度の問題などは、日本女性は直面していない。これは素晴らしいことだ。
しかし先進国の経済サミットの一員という立場からジェンダーの平等という問題を考えると、何と後進国かと言わざるを得ない。
このWWINは、世界から集まった千団体を超えるNGOのオブザーバーの一つに選ばれ、日本企業における男女間の昇級や昇給の格差の実態を各国の代表に訴えたのである。手段はニュースレターを配布したり、NY大学でワークショップを開いて、訴訟問題の意義やその経過、また日本企業に与えたインパクトなどについて討論を行った。

ここには住友系企業(住友電工、住友化学、住友メタルなど)を相手取り、賃金や昇進での男女差別、また既婚女性に対する差別に対して裁判中の原告9人が出席した。
住友電工に勤める白藤栄子さんがパネリストの一人として話しをしたが、訴えは約30年前に同期、同学歴で入社した男性と比べ、現在年収で約300万円もの格差があり、昇格のチャンスすら与えられない一般職に留まっているというもの。当然ながら会場からは驚きの声が上がった。

長年同じ職場に勤務して働く意欲を見せても、女性ということですべての道が閉ざされる憤りが、静かな語り口から伝わって来た。
時間や資金をやりくりしてNYに出向き、闘争中の訴訟について語れた女性達はごく限られていただろうが、今後も出来る限りこうしたチャンスを生かして訴え続けて欲しい。

同一価値労働同一賃金
また外国にいて、日本企業に現地採用されて働く日本女性の立場も、決して守られてはいないようだ。彼女たちの存在は、日本からの駐在員たちに取って重宝で重要であるにもかかわらず、ただ便利に使われるだけで「嫌ならいつでもお止め下さい」という態度が見え見えの会社が多いという。
残業や週末出勤も厭わない仕事振りでも大した評価を受けず、また健康でも害せば使い捨て、といった話はNYでもロンドンでもトロントでも良く耳にする。

だが北米では今や、男女間の賃金は「同一労働同一賃金」から「同一価値労働同一賃金(ペイ・イクイティ法)」に移行しているのである。
カナダでも去年の秋に連邦政府の女性職員23万人に対し、過去15年にさかのぼってこの法律の適用による差額が支払われた。

これは「男女の仕事の種類は違っても、労働価値から見て同等なら、男性の比較対象の仕事と同じ賃金が女性に支払われるべき」というもの。
日本がそこまでに達するにはまだ長い道のりだが、日本女性達はもう後ろを振り向かないことは確かなようだ。

OCS NEWS Jul.7,2000




カナダの英雄テリー・フォックス
20年前1人の若者が世界を動かした


国民的英雄
時代や分野で異なることを承知で「国を代表するヒーローを1人だけ挙げよ」と言われたら、アメリカ人なら一体誰の名前を掲げるだろうか?

さて、もしコレと同じ質問をカナダ人に向けたら、恐らく十中八九はガンで片足を失ったランナー「マラソン・オブ・ホープ」と呼ばれたテリー・フォックスというに違いない。
彼はちょうど20年前の春に、カナダの東端にあるニューファンドランド州の首都セント・ジョンズから、ガン研究基金設立を目的とした寄付集めの為に、義足をものともせず国土横断のマラソンに出発した若者だ。

4月半ばのその日はまだ春浅い肌寒い日だったが、市長を始めとする関係者が集まって彼の出発を祝した。市から贈られた赤いローブを肩に、はにかみながら短いスピーチをした若者はその時まだ21歳の大学生で、ローブとランニングパンツの組み合わせが、皆の目に奇妙に映らないかと気になってナーバスだったという。

セント・ジョンズはカナダの一番東に位置するため、いろんな人が、異なった主旨や目的を持ってここにやって来ては、この広大な国を横断する出発点にする。それは徒歩であったり、自転車であったり、車椅子であったりするが、誰もがその第一歩や第一輪を踏み出す前に、必ず港で大西洋の塩水に脚を浸す。テリーもその例外ではなく、義足を海水につけてこれからの計画が、無事に終了するように祈った。

  しかし若いとはいえ何といっても右足は、膝上15センチからの義足であり、何千キロもの長距離マラソンに堪えられるかと、回りの人たちは一様に心配したものだ。だがテリーの駆け足は予想以上に力強く、その時一緒に街の郊外まで走行する予定だった50代のある女性は、彼の早いスピードに追い付けず途中で同行の車に飛び乗ったという。

ガン研究基金の寄付集めの目標額は、最初1ミリオンcadの予定であった。しかしその後、効き脚に力を入れてピョンピョンと飛ぶような姿で、ただひたすらハイウェーを走る続けるテリーの姿がマスコミの話題になるにしたがって、街道で、村で、街でその主旨に感動した人々が10ドル20ドル紙幣を差し出すようなことも多くなり、目標額はすぐに10ミリオンcadに上昇した。

継続される意志
テリーがこのマラソンを計画したのは、18歳で治療不可能な骨のガンが右足に発見され、切断後入退院を繰り返すうちに、もっと研究資金があれば助かる命も多いのではと思い立ったからである。

しかし残念ながらこのマラソン・オブ・ホープは、国土横断という雄大な計画を終了することなく、オンタリオ州北方のサンダー・ベイという街までの、4800キロを踏破した1年2ヶ月後に、肺に移転したガンによって22歳の若い命を終えたのである。

この時点ですでにテリーの行動は世界の人々が知ることとなり、その意志に賛同した58ヶ国の人々からの寄付も集められて、とうとう基金総合計は目標額をはるかに上回る23.4ミリオンcadにもなったのだ。
こんな途方もない計画をたった一人で実行に移した勇気は「どんなことでもその気になれば可能だ」という思いを皆の胸に刻んでくれた。

また当時その行動力が、国の歴史に残る偉業と人々がたたえたことに異議を唱える人はなく、生存中にオーダー・オブ・カナダ(カナダ勲章)を授与されたが、彼は歴代の受賞者の中で一番若かった。
サンダー・ベイで没したテリーの希望は、その後誰か1人がBC州まで完走するのではなく、彼の意志を引き継ぎ末永く運動が継続することだった。

現在基金事務所は彼の両親や兄弟たちが維持しており、毎年9月の第3週目の日曜日をテリー・フォックス・ランと定め、国の内外で寄付金集めのマラソンが繰り広げられる。
春になると必ず思い出される、勇気あるカナダの一若者のヒューマンス・ストーリーである。

OCS NEWS May 5,2000




トロントの日系社会で活躍する日本人歯科医
白藤青湖さん


商工業の中心でカナダ最大の人口を誇るトロントは、その住民の半数近くが外国生まれである。人種のるつぼNYの二八%をはるかに上回り、名実ともに世界で一番の国際都市といわれている。

市内の日本人移住者は六千人ほどで、他のエスニックグループに比べ決して大きなコミュニティーではないが、皆カナダの地にしっかりと根を下ろし生活している。その一人である白藤青湖先生は当地に来て十八年になる歯科医。
カナダは、ここで歯科大学を卒業すれば、そのまますんなりと歯医者になれるが、外国からの移住者の場合は、例え母国で十分に経験のある人でも、国が規定する国家試験をパスしなければならない。

それは日本とは比べものにならないほど難関で複雑なシステムになっており、最初白藤先生も大分驚いたようだ。しかしその一つ一つをクリアーして、四年がかりで免許を取得した体験談はとても興味深く、カナダの日系史に残るに十分な偉業にさえ思われる。

言葉のハンディを背負いながら、筆記、実地、臨床、口頭試験などに挑んだチャレンジ精神は、遠い親戚に日本女医史の初期の頃に、吉岡弥生などと共にその名を連ねた中原とまや、社会派詩人、児玉花外などがいることとまんざら無関係ではないのかもしれない。

開業して十四年たつが、現在患者の八十%は日本人、または日系人とのこと。英語が余り得意でない日本人移住者にとって、外国に来て一番の心配事は医者通い。母国語で症状を訴えることができるのは、砂漠でオアシスに出会ったようなもので、今や白藤先生は「日本語ができる歯医者さん」として日系社会になくてはならない存在だ。

カナダは国民皆保険制度になっているものの歯の治療は例外で、個人が持つ別の保険によってカバーされるのが基本である。そのために歯科医たちは治療以外の煩雑な保健制度や、事務手続きなども理解しなければならずなかなか楽ではない。

「お金もうけだけを考えていたら日本にいたほうがずっと楽ですね。でも女性の能力を男性と同様、何ができるかで評価する社会のあり様がとても好きなのです」という。
家庭は現地で知り合った医療関係技師の夫と、テイーンエイジャーの娘さんとの三人暮らし。

白藤青湖(しらふじせいこ)
白藤歯科医院院長
一九四八年山口県生まれ。新潟大学歯学部卒業。九州大学で研修後山口で開業。八二年にカナダに移住し、四年後に日本人移住者の中で唯一、国家試験をパスしてオンタリオ州の歯科医師免許を取得した。
トロントの日系社会の中で広く活躍している。自転車、ローラーブレイドなど身体を動かすことが趣味。

ゆきのまち通信 2000年5月号




ゲイ・プライド・パレード
夏最大のイベント


6月25日
西欧諸国の一体幾つの町でゲイ・プライド・パレードが催されるのかは定かでないが、トロントでも毎年6月の最終日曜日の午後は、街を上げての賑やかなお祭りが繰り広げられ、趣向を凝らした7、80ものフロート(山車)が連なる。

これは夏を色取る最大のイベントで、あの華やかさと賑々しさの右に出るものはめったになく、また同性愛者の票が気になる政治家たちも、こぞってパレードに参加してお祭り気分を盛り上げる。

今ではよく知られていることだがこの行事の起源は、69年の6月にNYのゲイバーだった「ストーン・ウォール・イン」で起こった警察による暴動事件がきっかけで、それが70年代に入り公民権運動に発展し、その後各地で祭典として根付いたものである。

カナダではヴァンクーヴァー、トロント、モントリオールでのパレードが有名で、ちなみに去年のトロント市での人出は75万人といわれている。今年も多数の観光客を見込んでいるが、皮肉なかちあわせは、同じ日曜日にセブンスデー・アドバンティスト教会の集会が、やはり市内で開催される予定で、世界2百ヶ国から5万人の関係者が集まるという。
周知の通りこの宗教団体は、「同性愛は聖書に反しており受け入れられない」とはっきり言い切っているが、双方の組織ともが当日は反対デモなどは計画しておらず、お互いに無視を決め込むそうだ。

毎年のことながら、このパレードでの同性愛者たちのパワーと陽気さを見る限りでは、ゲイはマイノリティーの問題という意識を払拭させるが、これはあくまでも大都会の現象で、地方や特にティーンエイジャーの若者たちは、今でもカミングアウトすることをはばかる人は多数いる。
また同性愛者たちに対しての卑語は幾つもあるが、移民の子供たちが学校で最初に覚える英単語が"fag"というのをみても分かるように、ゲイたちに取っての最大鬼門の一つが学校というのが伺える。

しかしこうした根強いバッシングの反面、徐々にではあっても、彼らの法的権利が拡大している事実は、アメリカの場合最近のバーモント州での「ゲイ市民の『連合』を認める」法案や、先日のワシントンDCで行なわれた同性愛者の権利を求めるミレニアム行進を見ても分かる。

カナダでも去年の5月に最高裁で同性愛者カップルの権利を、異性愛者の同棲カップルと同じにするよう義務付けられたことを受けて、国はその立法化に向けて動き出している。法案は下院を通過し、現在上院での審議待ちであるが、これが通れば今までのように州ごと或は事業所ごとではなく、国全体で同性愛カップルの医療保険、税の配偶者控除、遺産相続などの社会的保障を擁護することになる。

国勢調査
筆者がは初めて同性愛者に関する取材をしたのは、94年に同法案がオンタリオ州で却下された時だったのを思うと、わずか数年の間に国全体がその権利を認める動きになった事に、大きな時代の流れを感じる。

しかし正式な結婚となると、まだ国として容認してはおらず、また養子縁組に関しても個々のケースで許可されているだけだが、これも年月と共に変化して行くだろう。
またこの5月には、来年の春の国勢調査の際に内縁関係として同棲しているカップルに対し、その相手が異性か同性かを問う質問が初めて加わることが決定した。

これは同性愛者に対する権利が今までの、「寛容」から「平等」に移行していることを如実に表わすものである。調査の結果が出ることによって、国内の同性愛カップルの数が初めて把握されることになり、同性愛者が異性愛者と同様にカナダ人の家族形態の一つとして位置付けされる方向に向いていることを意味する。
ゲイ・レズビアンが無視される国勢調査は片手落ちと思っていたアクティビストたちは、この決定をさらなる前進とみている。

OCS NEWS Jun.2,2000




エィドリァン・クラークソン新カナダ総督


総督とは?
カナダに住んでいない人には、「総督」というのが一体何をする人なのか、ピンと来ないかもしれない。
簡単に説明すると、長い間英国の植民地であったカナダは、現在でも議会制民主主義の国であると同時に、立憲君主制を維持しており、国家元首は英国女王である。

しかしエリザベス女王は普通英国に居住しているため、その不在中の名代として活躍するのがこの「総督」で、カナダ首相が指名し女王が任命する形を取って選出される。 政治的なパワーはないが実際には政府とのかかわりは深く、いろいろな意味で政治情勢に影響を与えるとも言われ、大変な名誉職なのである。
主な仕事は国を代表して、外国での各行事、例えば著名な政治家のお葬式や王室の結婚式などに出席したり、国内においては、各国首脳の接待や各種の催し物などに顔を出し、また勲章の授与をしたりする。

前任者のロメオ・ルブラン氏は、就任中の4年8ヶ月の間に6万9千人を公邸に招き、2千近い各種の催し物に出席し、9回の外国旅行をし、150ヶ国の大使の表敬訪問を受け、2千余人にメダルを授与し、加えて数え切れないコンサートやガーデンパーティーの主賓役を務めた。

常にパブリックアイにさらされ、緊張を強いられる仕事であることに間違いはない。

外国生まれ、少数民族女性
このポストに今回カナダ建国いらい初めて、移民一世でしかも少数民族である、エィドリァン・クラークソン(60)という中国系カナダ女性が就任した。
1939年に香港で生まれた彼女は、日本軍の侵略にともない42年、3歳の時に政治亡命者として移住した両親と共にオタワに移り住んだ。

トロント大、仏ソルボンヌ大卒業後、CBC(カナダ放送協会)テレビのジャーナリストやパーソナリティとして活躍し、著書も多数あり、また80年代半ばにはパリ駐在オンタリオ州総代理人を数年間勤め、現在はケベック州のハル市にある国立文明博物館運営評議会会長職にもある。
当然ながら英仏語は完璧で知名度も高く、まったく文句のつけようがない経歴だ。

カナダ人の中には、総督というちょっと時代錯誤的な地位の必然性や、また国民からではなく、その時々の首相によって指名される制度そのものを疑問視する向きもある。
しかし今までの傾向として政治家出身や、また、つつがなく任期を終えることのみを年頭に置く人たちがいた中で、文化人であり、オピニオニストとして活躍している180度転換の人選が、新風を吹き込こむのではと期待する人は多い。

彼女を任命したクレチェン首相は「これはカナダ社会の多様性と包容力の表れで、国の成熟度を示している」とコメントしており、確かにその柔軟性のある考えに敬意を表したい。

パーソナルライフ
だがちょっと面白いのは彼女のパーソナルライフである。
過去にクラークソン氏なる人との離婚歴があり27歳と30歳の娘がいる。別れた理由が彼女の男性関係だったとかの噂もあり、娘2人との関係は疎遠で10月中旬の就任式にも出席せず、メディアからのインタビューにも一切応じない。

当然今の時代、理由が何であれ離婚など日常茶飯で、別れた子供との関係がうまくいっていないなどはめずらしことではなく、それがこの地位獲得に何ら影響を与えなかったのは喜ぶべきである。

しかし、彼女は次期ポストに決まる色合いが濃くなったこの夏に、それまで何年間も同棲していた、カナダでは哲学者として著名なジョン・R・ソウル氏と慌てて結婚したのである。
もちろん「結婚はポストのため」という噂を否定しているが、何かすっきりしないという人は多い。

つまり、外国生まれの移民、少数民族の女性、男性関係、離婚、疎遠の娘たち、などが何らマイナス要因にならなかったのなら、もう一つ、結婚などという形式にとらわれない男女関係を維持するカップルの、女性総督が出現して欲しかったと外野席はかしましいのである。

OCS NEWS Oct.22,1999




カナダの青空の下で「いい湯だな!」
露天風呂温泉発掘に夢を 佐藤清一さん


日本人に限らず、世の中には「温泉が大好き」という人間は山といるのだが、その「好き」が高じて自分で温泉を掘ってしまう人はそう多くはないだろう。しかもカナダはBC州の、景観豊かなロッキー山脈の麓に露天風呂を、である。

「男のロマンの実現ですか?」の質問にただ笑う朴訥な佐藤さんだが、大自然を相手に夢を追う人生が男のロマンでなくて何だろう?
いつ襲ってくるかもしれない熊に神経を使いながら、時には岩から岩を這うように渡たり、ボート、馬、ヘリコプター、水上飛行機などを屈指して幾つもの秘湯を捜し歩いて10年。

この歳月は、自然保護にことのほか厳しいBC州政府と渡り合い、自然に抱かれた日本式露天風呂温泉にかける情熱を理解してもらうための年月であった。彼らの間でつけられた佐藤さんのニックネームは「MR.HOTSPRING(ミスター温泉)」。

そんな努力の末、やっと諸条件の揃った温泉にめぐり合ったのが、この春に完成したミガークリーク温泉である。ここは川沿いにある大きな自然の石に囲まれた場所で、カナダでは二番目の湯量を誇り日本の水上温泉あたりに相当するという。

所在地はバンクーバーから北に車で3時間半。世界的に有名なスキー場ウィスラーを通りペンバートンの街を抜けた山の中で、まさに「秘湯」にふさわしい大自然の真っ只中だ。 だがここは佐藤さんが開発する前にすでに年間4万人以上の人が通っていたという、知る人ぞ知るの人気スポットでもあった。

しかしこれだけの人がただ流れる湯につかるのでは、大腸菌がわき、湯の花(硫黄の沈殿物)が咲き衛生的には最悪の条件で、温泉作りに詳しい佐藤さんの腕の見せ所であったわけだ。
「普通のカナダ人は裸で入るのに全然抵抗ないのに、温泉といえば水着を着て入るプール形式しか知らない頭の硬い政府のお役人に、日本風の露天風呂を理解させるのが一番難しかった」という。

今は側に更衣小屋が一つあるだけだが、将来はログハウスのキャビンを作りお客が泊まれるようにしたいと夢は広がる。もちろん「環境」には十分配慮しての設計である。
「今までに掛かった費用?さあ、1.5ミリオンカナダドル(約一億5千万円)位でしょうかね。これだけあったら一家で世界中の温泉めぐりが出来たと家族にいわれますよ」と笑う。
去年トロントで24年間たずさわった毛皮の事業を手放した。今後温泉開発一筋にかける佐藤さんの情熱を支えてくれるものは、家族の理解と、こんこんと涌き出るお湯であることに間違いない。

佐藤(マイク)清一
温泉探検家
1948年、福島県南会津郡生まれ。東京拓殖大学政治学科卒業。73年カナダに移住。
ジョージ・ブラウン・カレッジ(トロント)で毛皮について学び、25歳で「ワールド・カナダ」社を創立し、24年間毛皮業に携わる。去年商売を手放し10年来の夢である温泉堀りに夢を賭けている。ブリテイッシュ・コロンビア州在住。妻と子供3人。

ゆきのまち通信 1998年9月号