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国家と神様
暴力的男性を産む母親
「あなたならどうしただろうか?」
セリーヌ・ディオンの人工受精妊娠
日本経済新聞「少子化・高齢化 ホットラインシリーズ」
相次ぐ病院閉鎖に不安 @
温かい食事を宅配 A
中国からの養子縁組み B
母親たちは「二重の職業」 C
移民の老後に言葉の壁 D

全国家庭科教育協会
 機関紙特集・新時代の創造「自分らしく生きる」

朝日新聞 論壇 「スペシャル五輪」を日本に広げよう
日本経済新聞 「日本人シニア、老後にカナダ移住 公営施設で快適ライフ」



国家と神様


■減少する信者
都会に住む人たちが、宗教や教会からは縁遠い日々を送っている傾向は、アーバーン生活の特徴だろうか。カナダも例外ではなく、特にこの国で生まれ育った人たちの間に顕著な結果が出ている。

2001年の国勢調査によると、少なくとも月一回教会に行く人が、89年には31%あったのが01年には28%に下降している。

ところが外国から移り住んだ移住者が通う教会は、これとは逆で両年比が44%から50%に向上しているのである。

特に東南アジアや、中近東の人々の宗教心の深さは知るところであるが、イスラム教にいたっては、街の何処に教会を作ろうともすぐに信者で一杯になるという。

もともと信心深いところに、新天地での心の拠り所を教会に求める傾向が強いことを表しているのだろう。

最近は教会もビジネスマインドがないと生き残れない時代になっている。少なくなる信者の獲得には、教会にコミュニティー・プログラムなどを併用することが成功の秘訣だという牧師もいる。

例えばファミリー・カウンセリング、親と幼児のアクティビティー・プログラム、高齢者向けの互助機関といったものが教会内にあるところは人気が高い。パーキングに困るほどに活気を呈するには、神様をバックにした効果のあるストラテジーが必要ということのようだ。

■建国史の相違
アメリカでは大統領の就任式はもとより、公共の場で公人が「God」(ののしり言葉ではない。念のため)という言葉をよく使うのは周知のとおりだ。特に「God Bless America」というフレーズは、9/11以降何度聞いたことだろう。

キリスト教が主流をなす北米大陸では、この際の「神様」がどれを指しているかはおのずと分かるというものだ。

それはカナダでも同じことだが、ここでは政府要人などが公の場で、アメリカほどにそれを口の端に上らせることはない。カナダの現首相であるクレチェン氏はカトリック信者で、夫婦ともども毎週教会に行っている。だがアメリカの大統領のように「教会に行くことが仕事の一部」といった感はまったくない。

違いの理由は国の成り立ちに由来すると言われている。

アメリカの場合は、1620年のメイフラワー号に見るように宗教的理由によってヨーロッパから移住した人が多かった。

一方カナダの場合は、交易が国の歴史の始まりであった。まず先住民のインディアンたちと毛皮の取引などが最初に行なわれ、その後、諸々のヨーロッパの国の人々が入植したのである。歴史と共に育まれた人々の考えの相違が見えて興味深い。

 
■憲法の中の言葉
「God」という言葉で思い出されるのは、4年程前にBC州出身のある社会党系議員が提起した国会での議論である。

それは憲法のなかに「カナダは至高の神を礎にすることを認知して成立している国である」とうたわれている部分を取りあげたのだ。いわく「多民族国家で、多くの他の宗教や無宗教の人々もいるなか、『神』という言葉はそぐわない」というもので、千人からの署名を取って国会での討議に持ち込んだ。

これには同議員の党内においても反対の意見が聞かれ、世論も賛否両論が渦巻いた。それは「カナダ国民はその大方がクリスチャンで、その教義の元にこの国は成り立っている。

デモクラシーの国ならば多数の流れに沿うのがルール」というものもから、「その神をどのように解釈しても構わないではないか。キリスト教もユダヤ教もヒンズー教もイスラム教も神に違いはないのだから、自分の信じる神を当てはめて何も問題がない」というものまであった。モザイク文化主義を標榜する国の一端を如実に見る思いがした。

OCS NEWS April 11, 2003

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暴力的男性を産む母親


■17年間の研究
学者というものは時にひどく当たり前の研究をしても、それをもっともらしく発表することによって収入が得られるという、なんとも羨ましい職業だと思うことがある。
もちろん時間と研究費を掛けて長い間一つのテーマを追い、統計を取って結果をまとめるというのは、確かに学問に従事している学究者ならではの成果である。それによって既成事実が裏付けされることになるからだ。

一ヶ月ほど前にモントリオール大学の、幼児教育センターの2人の教授が発表した研究課題は、まさにそうしたものの一つである。
それは15、6歳(G9当たり)くらいまでに学校をドロップアウトして、子を産んだ母親などに育てられた子供、特に男の子は、幼稚園などの集団生活に入ると非常に社会性に欠けていて、暴力的な行動にでる問題児が多いというものである。

そしてその子たちが成人男性になると、その暴力的素質はもっと根深いものになっていく。その為の防止策としては、こうした環境で育った暴力的な男性の教育も大事だが、そうした情況で子供を育てている母親に、「子育てスキル」を学ばせるのがもっと重要だと結論付けているのだ。

そんなことは学者ならずとも容易に想像がつくような気がするが、やはり心理学の教授が10数年の年月をかけて実証すると、当然ながら重みと説得力を伴う。
研究は1986年にモントリオールの仏系カナダ人の、貧困層に属する男の子1037人を対象に開始された。彼らは当時6歳の幼稚園児であったが、その後調査を進めるに従って次の4つのグループに分けることができた。
@全く暴力的でなかった子(15%)
A多少暴力的であったが後に全然その傾向見らなくなった子(50%)
B非常に暴力的であったが、成長とともに急激によくなった子(30%)
C慢性的に暴力的な子(5%)

その差はあるものの、この子供たちの多くはアルコールやドラッグ、また車の事故などで問題を起こし、警察のやっかいになる事が多く、また早熟で異性との関係が早いうちから始まっていたという。

だが特筆すべきことは Cに属する男の子のほとんどが、15歳くらいで学校をドロップアウトしており、その母親たちは見ると、同じように充分な教育を受けておらず、育児について乏しい知識しかない点である。

■乳児餓死事件
おりしも今トロントでは、4年前の初夏に19歳で子を産んだホームレスだった女性が、生後35日目の自分の子供を餓死させたことが裁判沙汰になっている。
その時彼女は、一応は児童擁護センターの職員の指導のもとにあったものの、公営のシエルターを転々とする生活をしていた。乳児を医者にも連れて行かず、十分にミルクを与えなかったことがもとで、骸骨のようになって死んでいったのである。

それを“殺人”と見なす裁判所では、お互いに責任をなすりあう母親(23歳)と、シェルター職員たちとの間で、容易に結論の出ない論争を繰り返している。
この女性はまさに前記の調査のように、15歳で学校をドロップアウトした女性で、母親の再婚相手の義父と上手く行かず、10代の半ばからストリートキッズとして生きていた。自己評価が異常に低く、「自分が独り占めできる愛する対照(子供)が欲しかった」という。心のより所を求めて妊娠、出産を経験したのである。

これはホームレスの若い女性によく見られる傾向だが、育児の何たるかも知らずに安易に子どもを産んだ例で、餓死させたことに対する訓戒の念も薄い。彼女は裁判の進行とともにことの重大さを認識してはいるようだが、その人間的成長は、一人の子どもの犠牲の上に立っての習得である。

まさにモントリオール大学の研究の一環を裏付けるような事件なのが興味深い。

OCS ニュース、 May 8、2001

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あなたならどうしただろうか?


■7年半前の殺人事件
1993年10月24日にその事件は起きた。カナダの中央平原に位置するサスカチュワン州の、見渡す限り麦畑が続く穀倉地帯。ウィルキーという田舎街の農夫ロバート・ラティマは、当時12歳の脳性小児麻痺をわずらう知的障害児の娘トレイシィーを殺害した。

10月初旬の感謝祭も終わり小麦も刈り入れて、日に日に秋の深まりが感じられる季節。子供達はハロウィーンのコスチューム作りに余念がない。そんな時期に、彼は娘をピックアップ・トラックの助手席に乗せてエンジンをかけた。一酸化炭素が車内に充満するように仕掛けて外からじっと見届けていたと言う。もし少しでも苦しんだならすぐにドアを開けて助け出すつもりでいたからだ。

しかし幸か不幸か、そんな兆候を少しも見せずトレイシィーは12年の短い命を終えた。ラティマはサスカチュワン州の裁判所が下した「殺人罪」という判決を、更に最高裁に持ち込み、自宅捕縛の4年を経て裁判の結果を忍耐強く待っていた。そして今年の1月中旬。9人の判事が下した判決は10年の禁固刑であった。

全国から寄せられた2万近い署名もむなしく、47歳の農夫は妻と幼い三人の子供たちを後に刑務所に送られた。しかし彼はこの最終判決にたいして「トレイシィーを殺したことを一度も後悔したことはない。彼女にとって最良の方法を取ったのだから」と静かに言い「娘の身体的苦しみに比べたら、刑務所の硬くて汚い床に寝ることなど何ほどのこともない」とも付け加えた。

彼は3、4ヶ月の赤ん坊ほどの知能しかなかった娘の、その障害を苦にして殺害をしたのではなかった。トレイシィーは脳性小児麻痺という病気を背負ってこの世に生まれたが、それは身体的にも究極の状況であった。腰の当たりから体が捻じ曲がっていたためまっすぐには座ることはおろか、自分で動くことも食べることもできなかった。

しかしその捻じ曲がった骨や筋肉の痛みを、泣くことでしか伝えられなかった子のために、一家はあらゆる手段を使って苦痛を和らげる努力をした。また手術も何回となく受けさせたものの、完治する見込みはなく、93年のその秋も、幾度目かの手術を目前にしていた矢先だったのである。

ラティマは我が子のこれ以上の苦痛を見るに忍びなかったため、親の手で「安楽死」をさせたのだ。

■分かれる世論
最高裁の結論は身体障害者の擁護団体の人々を歓喜させた。「どんな人間にも命をまっとうする権利がある」と。

もちろん常識から考えれば、いかなる理由があろうとも殺人は殺人である。それは誰にでも分かるのだ。そしてその常識通りの最高裁の結論は当然としかいいようがない。しかしこの事件に関しては、多くの人が「だが…」という一言を加えずにいられないのだ。

当然ながら世論は賛否両論に分かれ、“安楽死”という言葉が飛び交っている。はっきりとしたものいいで知られるある女性コラムニストは、後にどれほどの風当たりがあるかを先刻承知しながら「自分がラティマなら同じことをしただろう」と言い切った。

彼の刑が軽くなるのはただ一つ。世論が沸き、国会議員が動き、首相が先頭に立ち、国の総督の承認を得て「恩赦」を得ることだ。しかし彼自身はそんなことが起こることはツユほどにも期待していないという。自分の信念で行った行為に、いさぎよく罪の償いを受けようとの覚悟が伺われる。申し分のないよき家庭人であるラティマが、残した妻や幼い子供たち、また生活の糧である農場をどれほど気遣っているかは想像に余りある。

事件当初からことの成り行きをつぶさに追っている筆者は、この7年半自分に問い続けている。「自分だったらどうしただろう?」と。考えるたびに落涙を禁じえない。

OCSニュース February 16、2001

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セリーヌ・ディオンの人工受精妊娠


■人工授精
本当の21世紀の始まりは今年からとは誰もが分かってはいた。だが「2000」という年代への突入は新鮮で、「ミレニアム」という言葉が飛び交った一年前のお正月。コンピューターがもたらしたY2K問題に大揺れしたのも今では懐かしい。

戦後日本ではスットントン節というのが流行って、“〜新婚旅行も飛行機で飛んだ夢見て目が覚めた〜”なんていう歌詞が盛んに歌われたという。
それがどうだろう。ジェット機時代を迎えた今は、北米の東海岸から地球の裏側の日本へはたった12、3時間の旅。人はそれさえも長すぎると、更なる工夫をしているという。

じゃれ歌からたかだか半世紀しか立っていないのに、科学や化学の発展がこれだけ人々の生活に変化を与えたのだから、21世紀には人間の生活に“不可能”という言葉は存在しなくなるのだろうか。

問題があると言われつつもそのうちクローン人間も登場するかもしれない。自分と同じ人がもう一人隣にいたらどんな気持ちがするかしら?「嫌だ!」と思う前に何か底知れないおぞましさを感じるが、それは今はまだ不可能なことだからか?来世紀を迎えるころにはそれも日常化した出来事の一つになる可能性は十分にある。
そして男性が子供を産む事だって可能になったりして…。「ねえ、最初の子は私が産むから2人目は貴方が産んでよ」なんて会話がパートナーとの間で交わされる日もありえるかもしれない….と想像は膨らむ。

今はまあ、そこまでは行かないにしても、過ぎ去った20世紀の最大の偉業を女性の立場からみると、何といっても試験管ベービー、つまり体外受精が可能になったことではないかと思う。

「タイタニック」「美女と野獣」などのテーマソングでつとに有名なカナダの歌姫、セリーヌ・ディオンの妊娠はまさにその極地を行くような出来事だ。
「愛する男性(ひと)の子をせめて一人!」と彼女が最新医学を屈指して体外受精に成功したのは去年の夏。歌姫の受精卵は22個(うち14個は健康的に優良なもの)で、今回はその中から3個を選んで子宮に戻したが、その一つが着床し無事に育ったというわけだ。

来月のバレンタイン・デー前後には待望の子供が生まれる予定だ。だがことはそれだけではない。この男の赤ちゃんには同時期に受精した弟がいるのである。これは残り9個の受精卵の一つで余剰卵といい、今NYのどこかの病院で凍結保存されている。

医学界ではもう珍しいことではないが、やはり「人工」となると次の時も成功するという保証はない。

■親子の絆作りは続く
14人姉妹兄弟の彼女はそれでも「お母さんと同じ!」と大はしゃぎ。いつとはまだ決めていないが「必ずもう一人も産むってお母さんと約束したの」と明るく語る。
同時期の出産ではないものの、同時期の受精を受けてこの弟を「実質双子」と呼ぶそうだ。彼女がかかっている医者には同じ手法で3年後に2人目を生んだ女性もいるとか。

もちろんセリーヌ・ディオンほどの富と名声があれば、それこそ“不可能”ということは世の中に存在しないのだろう。が、とかく親の思い通りにならないのが「子育て」というもの。のちのち「あっちを選べばよかったかな」なんて思わないように願いたいものだ。

しかしこれほど医学が発達しても、さて「親子の絆」となると、やはりともに過ごす時間が多いことが重要という。生まれて1年目までが特に大切との研究成果を受けて、カナダでは今年から産休(父母のどちらでも可)が25週間から50週間に延長された。

「子供の発育の基礎を作る新生期に、ケアしてくれる人との信頼関係が上手くいくかどうかはその後の人間性に多大な影響を及ぼす」と強調するのは、「児童の健康に関する研究所」のワーカー所長。

大方の親たちはこの政府主導のベネフィットを歓迎しているが、中には「仕事をしたいから6ヶ月が限度」と言い切る女性もいる。「母親のすべてが新生児と一緒にいたいと思うのは幻想に過ぎない」とトロント大学の心理学者マーティン教授はいう。

どうやらオーダーメイドの子育てが大切なのは21世紀も変わらぬ傾向のようだ。

OCS NEWS Jan.,19,2001



日本経済新聞「少子化・高齢化 ホットラインシリーズ」 @

相次ぐ病院閉鎖に不安


この春、トロントの地下の駅やバスの停留所に次のような広告がでかでかと貼られた。それは「病院」と書かれた建物の入り口に「空きベットなし」というネオンサインが光り、その下に「病気になっても心配ないか?」との問いかけが記されものだ。

カナダの連邦、州両政府がこの二、三年大幅な財政赤字削減に力を入れているニュースは、日本でも大分話題になったようだが、その政策の一環として、大胆な医療制度の見直しがあり、幾つもの病院閉鎖が続いている。

そんな動きに不安を感じる市民の声をぶちまけようと言うのが、広告のスポンサーであるラジオ局の意図だ。
カナダのヘルスケアの中で病院の運営は主に州の管轄であるが、八十年代半ばのいわゆる医療福祉全盛時代から比べると、全国のベット数は三十%(約五万床)も減少し、現在は人口千人に対し四.一床の割合になっている。また短期療養の平均入院日数も七日間と短めで、どの州も経費節減のためにまだまだ病院の閉鎖は続くとの報告を聞く。

こうした変革をトロント大学付属の人間開発と高齢化に関する研究所のウイッグドー名誉教授は「改革のしわ寄せが政府から個人の家庭に移行し、特に老人介護が女性の肩にかかっている」と指摘する。

仕事をしている女性の場合はその犠牲も大きく、せっかくのキャリアを無駄にしたり、老後のペンションに影響を与えることもある。会社によっては最近ファミリー・フレンドリーと称して、老親をみる雇用者の養護対策を課題にしている所も出てきたと聞くがそれはまだほんの少数。
過度期にある医療の変革が、国民の将来にどのような影響を与えるかを学問的に論じるには、時期尚早という意見も聞かれはする。

しかし何よりも今まであった病院が存在しなくなり、医療の低下を呼ぶと思われる現象には、まだ働き盛りの団塊の世代が最も不安を感じているようだ。
現在徐々に直面し始めた自身の老親介護問題が、自分たちの将来への不安に重なるからである。

六月二日に二期連続で過半数を制して政権獲得をした自由党も「全国的に統一されたメディケアの充実」が目玉公約の一つであった。
カナダも二千二、三十年頃には、六十歳以上の人口が三十%を超えると予想されている。
国民の最大の関心ごとの一つが「医療の行き届いた安定した老後である」ことは言をまたない。

日本経済新聞 Jun.15,1997



日本経済新聞「少子化・高齢化 ホットラインシリーズ」 A

温かい食事を宅配


「ハロー、フランク。昨日は大分咳き込んでいたけど風邪の具合はどうかね?」と優しく声を掛けながらドアの入口で手に持っているビニール袋を渡すのは六九歳のティムさん。中にはすぐに食べられる暖かいランチが入っている。

「今日は大好物のシチューだ」といって口元をほころばす八三歳のフランクさんは、三年前に奥さんを亡くしてからアパートで一人暮らし。しばらく世間話しをして「じゃまた明日くるからね。薬を飲むのを忘れないように」と言って戸を閉め、ボランティアのティムさんは次の家の配達に急ぐ。

これは週五日間、朝の十一時から二時間ほど街のあちらこちらで見られるミールズ・ オン・ウィールス(MOW)のサービス風景で、文字通り車で運ぶ食事の宅配便である。

主にシニア向けに企画された互助機関だが、他にも身障者や退院後の身寄りのない人も含まれ「一日一食は栄養の整った食事を」という願いから生まれたサービスだ。ボランティアは毎日受給者の様子を伺い、食事以外にも助けを必要としているかを知るのも大きな目的である。

トロント市内には二二ヶ所ほどのMOWがあるが、どこも各種の社会福祉機関が母体となっており、オフィスはコミュニティー・センターや教会の地下などに二、三人の職員を置いて独立採算制を取っている。調理は近くの病院や老人ホームなどと契約し、また宅配活動はわずかなガソリン代を出してボランティアの手に委ねている。ほとんどはティムさんのような退職後の年配者であるが、昼間だけ時間のある子育て中の主婦や、夜勤明けの若者などもいたりといろいろで、地域の教会で手を貸してくれる人を募ったりもする。

運営は州政府、地方自治体、各種寄付、そしてサービス受給者からの徴収金などによって賄われており、毎日配達されるホットミールは一食あたり四ドル前後、五食まとめた冷凍食品は二五ドルほどである。同じ献立に飽きないように一年に一度はメニューの見直しが行なわれるが、大体主菜は三五、六種類、スープやデザートが各十二、三種類と豊富で、糖尿や減塩患者にはメニューの横に"不向き"と印されている。

カナダでは定年(六五歳)後の子供との同居率は十二%ほど。基本的には独立した子供の家族と一緒に住むという家族体系が非常に少ない社会では、MOWのような活動は不可欠で、各自が自分で身を守ることが生活の基本になっている

日本経済新聞 Aug.17,1997



日本経済新聞「少子化・高齢化 ホットラインシリーズ」B

中国からの養子縁組み


トロント近郊の新興住宅地に住むコリンソン夫妻はいま念願の赤ちゃんを抱ける喜びにひたっている。
この八月中国に行き養子として貰い受けたハンナちゃんは、カナダに来て早々一歳の誕生日を迎えた。ハイハイのため目が離せない上、慣れない抱っこで「腕の筋肉がすごく痛い」というが、帰国以来百八十度変化した生活は予想通りに楽しく充実した毎日だ。

このカップルは、ここ数年急激に増えている中国からの養子を迎えた白人夫婦の一組だが、同じような状況でカナダ人の子供になった生後五ヶ月から2歳弱の赤ちゃんはすでに千三百人ほどにのぼる。

大方の場合、夫婦が幼い子供の養子を考えるのは、流産や不妊治療を繰り返した後の決断のため、年齢はすでに三十代後半から四十代になっている。
国内での養子縁組の場合は、各種の手続きが煩雑で数年は待たされるため「少しでも早く」と思う中年夫婦の要求を満たせないことが多い。

また最近は十代の無計画な妊娠でも最終的に自分で育てたいという若い女性が多くなったり、中絶も簡単にできるため予定していた縁組みが反古になるケースもまま見られる。
一方国際養子縁組みは南米、東欧、ロシア、インドからと広範囲に渡っているが、特に中国の場合は組織が充実していて平均二年ほどで手続きが完了する。

ただ同国の一人っ子政策の影響で手放されるのは女の赤ちゃんがほとんどであるが、健康面での問題を持つ子は余りいないという。

手続きに必要な経費は平均二万カナダ$(一カナダ$=85円)ほどで、これには飛行機代や中国滞在の費用、子供のいた孤児院への寄付も含まれている。
また親の年齢は三五歳以上であることが条件だが、独身女性でも収入、健康、環境などが規定にかなえば問題はない。

やはりこの八月初旬に中国に行って二歳の子供の母親になったマギー・エドモンズさんは五十歳のシングルマザー。「子供の時からベビーが大好き。親戚や友達がとても協力的で子育ての心配は何もない」と母親業を満喫している。

オンタリオ州では仕事をしている女性の場合十週間の有給休暇が取れるが、職場復帰のさいに北京語を話すお手伝いさんを、と考えている人もいたり、中国文化の吸収や同じ環境の仲間とのネットワーク作りに力を入れている家族もいる。

お金を払って海外からの養子を手に入れることに異論はあろうが、彼らは子どもの背負った文化を出来る限り受け入れようと努力している。 。

日本経済新聞 OCT.19,1997



日本経済新聞「少子化・高齢化 ホットラインシリーズ」C

母親たちは「二重の職業」


最近はアメリカの景気回復にともない、長い間経済低迷の続いたカナダにも多少の光明が見えるようになった。それでも好景気のピークであった八十九年辺りから比べると、家庭の平均年収入(五万五千カナダドル=約四百七十万円)はまだ五・四%も低く、この数年「豊かさを感じない」という人は多い。

この秋にカナダ統計局が発表した「カナダ人の社会動向調査」では、七十%ほどの男女が「夫も妻も家計を負担すべきだ」と答えている。「キャリアの遂行」や「自己充実」といった女性側の要求と並んで、経済的な必然性が、女性の社会進出に拍車を掛けている。

しかし一方では、皮肉なことだが、就学前の子供が居る場合には「両親が働いていると子供によくない」と考える人が、男性の五十九%、女性の五十一%にもなっているのである。
加えて「仕事もいいが女性が本当に望んでいるのは家で子供を育てることだ」の問に賛成する男女が、何と四十六%にも達した。

性差別むき出しの質問自身に不快感を覚えるカナダ女性は多い。タイム誌のコラムニスト、ジュディス・ティムソン氏も「今や世界は現代女性の何たるかを承知しているはずなのにカナダは今だに女性の社会進出に迷いを感じているのか?!」と驚きをあらわにする。

しかし冷静に見るとこの数字は、「家族」と「仕事」の狭間で苦しむ母親の苦悩をくっきりと浮き彫りにしたといえるかもしれない。
男女間の機会均等や平等賃金など、女性が勝ち取りつつある社会的地位の変化は、逆に彼女たちを「二重の職業」に従事する結果になった。つまり社会に出て「給料を貰う仕事」と従来の家庭での「無収入の仕事」の二つである。

二十五歳から四十四歳までの家庭に見る一日平均の家事労働時間は、母親が四・八時間に対し、父親は三・二時間で、おまけに余暇に費やす時間は父親が一時間も余分。働く母親の負担は日本と同じに重い。

十月にオタワで開かれた「母親は女性」と題する会議では、二十一世紀を前にしてもなお、保育所のいっそうの充実や専業主婦の地位向上が語られた。
社会の基本をなす家庭の形は、七十四%が「結婚+子供」のカナダである。親の背を見て育つ次世代の子供たちの教育のためにも、より多くの父親の家庭参加が望まれるのは、今も、今までも、またこれからも、変わらず重要な課題のようだ。

日本経済新聞 Dec.21,1997

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日本経済新聞「少子化・高齢化 ホットラインシリーズ」 D

移民の老後に言葉の壁


十七年前にパキスタンから一人娘を頼ってカナダに移住して来たアリさんは今年八十二歳。去年軽い脳卒中で不自由をきたすようになってからは娘のコラサニさん家族と同居している。
大学と高校に通う二人の子供と協力して在宅看護を続けるシングルマザーの彼女は「将来は分かりませんが今は父を公共施設に入れる気はありません。英語ができませんし、食物が違うのでつらい思いをするでしょうから」という。

例え言葉が不自由でもカナダ人同様に、老人看護に対して各種のオプションはあるものの、エスニックの家庭では「老親は最後まで自分たちの手で」と思う家族は少なくない。
カナダはその国策をモザイク文化主義としていることからも分かるように、いろいろな国からの移住者が持ち込む文化を大切にしながら、多様な民族社会を構成している。

最初に家族が移住し、その後親を呼び寄せるのがよく見られるケースで、特に中国、香港、東南アジアの国々からの人に多い。
九十六年の統計では二十二万四千人の移住者のうち三・二%(約七千人)が六十五歳以上のシニアである。

カナダの公的年金は二種類あり、若い時から積み立てるカナダ年金(最高額約七四十カナダドル)と、十八歳以降に最低十年間カナダに居住したことが条件の老齢年金(最高額約四百十カナダドル)があるが、シニアになってからの移住ではほとんど受給は無理。従って家族との同居か自活する経済力があることが必須である。
核家族になりがちな移住者にとっては、お年寄りが側にいる生活は「家族の絆」を学ぶにもかけがいのない存在だ。また政府の財政削減で保育園などが十分でない昨今では、孫の面倒を見てくれる親は社会生産に直接関わらなくても、影の功労者としての貢献は大きい。

しかし最近政府は、増える一方の"家族呼び寄せ"に関する移民法に「英仏語のいずれかができること」(六歳以上が対象)を条件にする旨を考慮している。国指定の標準テストにパスするか、不合格の時は移住後に自費で語学校に通うことが検討され始め、早くも「人種差別」か「必要政策」かの議論に湧いている。
確かに四十一%(九十六年)の移住者は英仏語のどちらもできないとあり、そのため政府は語学教育関連に1億六千万カナダドルも費やしたとなれば、新政策もむべなるかなの感もある。

だがもし法律化されれば移住者の負担は大きく、親どころか後続の子供にも当然影響する。
多様文化主義に陰りがさす可能性も生じかねない。

日本経済新聞 Feb.22,1998




特集・新時代の創造「自分らしく生きる」

《今日を精一杯誠実に》

つい先ごろ私は、北アメリカ・フロリダ州の南に位置する、カリブ諸島の一つである社会主義国キューバに出かけました。

仕事と休暇をかねての1週間の旅でしたが、透き通る青空をバックにした太陽は、まだ夏の初めというのに、来る日も来る日もすべてのものを焼き尽くすかのように熱く、熱帯の花々は色鮮やかに咲き乱れていました。

訪れた場所は首都ハバナからずっと東にある、大西洋に突き出たCAYO COCOという半島のほぼ先端。
浜辺から見る海はもちろんブルーなのですが、それは深さによって何段階にも帯状に色分けされています。もし日本語でこの色調を表現するなら、「青」「蒼」「藍」のどれもが当てはまり、微妙な色合いのコントラストが実に見事でした。


この国をこよなく愛したノーベル賞作家、アーネスト・ヘミングウェーの書いた「老人と海」を嫌でも思い浮かべる、ヤシの葉で出来た小さな小屋が点在する白い砂の浜辺。そこで会う赤銅色の膚をした若い魚師たちが、ニッコリとしたときの白い歯との対比は、まばゆいばかりの健康美でした。

場所は違うものの、10年ほど前にやはりこの国を訪れたときに比べ、一般の人々の生活は確かに向上しているかに見受けられました。しかしいまだに一見して、決して「物質的に豊か」という言葉は当てはまらにように思われます。

贅沢なものは余りない、この国の有り様しか知らない一般庶民の生活に、ものが溢れ、贅を尽くす資本主義国から来た者は、かならず一度は「彼らは本当に幸せなのか?」と問うて見たくなる気持ちになるようです。

もちろんその答は「幸せ」とう基準をどこに置くかによって「Yes」にもなり、また「No」にもなりえます。これは世界のどこに住んでいようとも同じ事で、単に「社会主義国」対「資本主義国」といった政治的な面のみで推量ることが不可能なことは誰にでも容易に想像できることです。 

昔私が学校に行った時代には、「水泳」と言うのは体育の教科に組み込まれておらず、それゆえもあって私は浜っ子であるにもかかわらず、今もって泳ぎは不得意で、その楽しさを充分に享受できないまま現在に至っています。

そのため、今までにこのキューバをはじめ、メキシコ、ベネズェラ、ドミニカ共和国、ギリシャなど、息を呑むほどに美しい海に囲まれた国々を訪れても、もっぱらビーチで読書三昧をするのがまたとない楽しみではあっても、沖合いに泳ぎ出たり、シュノーケリングやダイビングをしながら、海底の神秘を味わうという趣味は持ち合わせませんでした。

しかし今回の旅では「一度海の底をこの目で見てみたい!」という強い思いに突き動かされ、しっかりとライフジャケットをつけて、ボートで沖合い2キロほどのところに出かけました。美しい海に抵抗できなかったのです。

もちろんその道のプロがそばに着いていてくれましたので、安心して行動が出来ました。脚にヒレを付け、水中メガネや呼吸用のシュノーケリングを口に加えて、勢いよく海に飛び込み顔を海水に浸した途端に、ぱっと目の前に広がった色取り取りの海底のパノラマ! 私はその瞬間、今までこの機会を何回も逃したことを本当に悔やみました。

と同時に、その時トロントに住むある親しい日本人の友達の息子さんの顔が、さっと脳裏をよぎったのです。それはつい先ごろ、両耳の後ろにそれぞれ2センチ四方くらいの腫瘍があることが発見され、まもなく、いつ、どのように手術するかを決定することになっている26歳の若者の顔でした。

彼の母親である私の友人は、10年ほど前に夫を同じ病気で亡くしています。長い闘病の末の終焉でした。大人しいながら芯の強い彼女は、その後一人息子の成長を楽しみに、くじけることなくまじめに働きながら、親子で支えあって生活してきたのです。

この若者は、当時まだティーンエイジャーだったわけですが、父親の死に至るすべての過程を目のあたりにし、ある意味での人生の淵を見たためでしょうか、生まれつきの穏やかな性格に相まって、ますます人に優しい思いやりのある青年に成長しました。

急にその顔を思い出したのは、こんなに美しい海の底を見るという、望めば
泳ぎの下手な私でさえも出来ることが、彼にはできないのだという人生の不条理に愕然としたからです。手術によって聴覚を失う可能性の大きいリスクを目前に控え、大好きな音楽さえ聴くことがかなわなくなり、また、まかり間違えば、命の危険をも伴う現実を直視している若者とその母親。

彼らを知る人たちは、皆こちらで言う「It is not fair!」という思いを抱き、何度も「何故?!」を繰り返し、涙し、祈っています。

しかしどうやっても納得のいく答の得られない現実にこの親子が立ち向かっていることに、「神も仏もあるものか!」と私は幾度も繰り返して感じている事を、キューバの海底に生息する紫や黄色やオレンジ色のさんご礁、色鮮やかな熱帯魚のシャープな歯に指先をかまれながら思い出したのです。

息子を思うこの母親は当然ながら打ちのめされ、毎夜睡眠薬なしには眠りにつけないことを言葉少なに語ります。憔悴しきっている彼女を見ると、父親からの「遺伝」というにはあまりに苛酷な試練であることを思い知らされます。

運命といってしまえばそれまでですが、キューバに生まれたことによって、選択の余地なくこの土地に生活する人々と同じに、世の中には自分の力ではどうすることも出来ないことが数限りなくあるものです。

そしてもう一人やはり私の脳裏に去来した人は、同じようにトロント近郊に住む今年89歳になる日系人のおばあさんの顔でした。
つい最近ふとしたことでお知り合いになった彼女は、カナダに来てから70余年という女性です。初めてお尋ねしたとき、もう半世紀以上も住んでいるという家が、子供達の手によって建てられたということを知りました。

歴史が染み込んだ、彼女にとっては思い出一杯の家は、今の一人暮らしには大き過ぎるものの、他に移る気は全くないと穏やかに笑う笑顔が何とも優しく、思わず涙がこぼれそうになるほどに邪気がないのです。

お名前は「花子さん」と言う可愛いらしものですが、長い間果樹園などで肉体労働をしてきたという陽に焼けて節くれだった手は、平坦ではなかった彼女の人生を物語っています。
アメリカの日系人が戦争中に強制収容所に送られたのは広く知られていますが、当時バンクーバー周辺に住んでいたカナダの日系人も、ロッキー山脈の麓に強制収容されました。

10年余り前にカナダ政府は自国の非を認め、彼らに補償を行ったものの、冬は雪が深く、夏は暑さがことのほか厳しい木造の仮住まいの数年間については、今生き残っている日系人は多くを語りません。

戦後東への強制移動令のもと、排日の厳しかったBC州を後に、花子さんも夫と共に12歳を頭に生後6ヶ月だった乳飲み子を抱え、大陸を横断してトロントに移り住みました。そこで5人目の初めての女の子が生まれたのです。

花子さんに取って、それまでの、そしてそれからの幾星霜は、必ずしも彼女が望んだ人生だったかどうか......。でも今はその節くれだった指で、彼女独特の押し花のグリーティング・カードやドライフラワーのアレンジメントを造るのを趣味にしており、いつも若いお友達の訪問が絶えません。また「梛女」の屋号で俳句も楽しみ、句集「雪野」も出版しました。

私は昨年の暮れに、シニアになってからカナダでの生活を22年間経験した自分の母の生き方を書いた「カナダ生き生き老い暮らし」(集英社)という本を上梓しました。
今年91歳になる母の場合は、子供の死との直面や、強制収容などという経験はないものの、関東大震災を経験し、結婚後は夫が戦死したことによって、3人の子供を抱えての戦後の日々を女手一つで生き抜いたのです。

何にも束縛されることなく、自由に自分らしく生きたいという思いは、人間誰もが持っていると思います。しかし、世の中にはあらがいがたい運命や、社会の流れに翻弄される人々が数え切れないほどいます。

そう言っている私の明日の運命も、また誰にも分からないのです。となれば、やはり今日を精一杯誠実に生きることが、取りも直さず「自分らしく」生きることにおのずと繋がっていくのではないか、そしてそれが唯一無二の道ではないか、と私は思います。

全国家庭科教育協会
 機関紙特集・新時代の創造「自分らしく生きる」 2001年8月31日発行



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PS:その後私の友達はの息子さんは、腫瘍の悪化を見ることなく元気にしている。この上ない嬉しいニュースである。


朝日新聞「論壇」

「スペシャル五輪」を日本に広げよう


日本のマスコミ界は、早くも来年の長野冬季オリンピックの話題でにぎわっているが、2月上旬にカナダのトロント市で開催された第6回冬季スペシャル・オリンピックス(SO)については、ごく一部の報道機関が取り上げただけだった。一般には、その存在すら知らない人が多い。

身体障害者のための国際競技大会であるパラリンピックや、国内で開かれる厚生省主導のスポーツ大会「ゆうあいピック」はよく知られているが、SOはそれとは全く別で、年齢8歳以上で知能指数が80以下の知的障害者のための国際オリンピックである。

今大会は世界80カ国から約2000人の選手が参加したが、夏季大会は一段と大規模で、通常100カ国以上から数千人の選手が集まる。国際オリンピック委員会からは「オリンピック」の名称使用も正式に許可されており、健常者の五輪と同様、4年ごとに夏季、冬季大会が開かれる。1999年には、第10回夏季大会が米ノースカロライナ州ラーリー市で、また冬季大会は現在のところ場所は未定だが、2001年に開催の予定である。

このSOが、ほかのどの「五輪」とも大きな異なる特徴は、組織の運営が世界で55万人にものぼるボランティアによって支えられている点にある。今回もトロント市と、スキー場になったコリングウッド市(トロント市から北に車で2時間)では、6000人ほどのカナダのボランティアが、率先して休暇を取り、手弁当で骨身を惜しまない手助けをしたことにより、8日間の大会は成功裏に終わった。

  日本からは8人の選手が、スキー、スピードスケート、フィギュアスケートの3種目で活躍したが、2週間近く彼らと寝食を共にした同行のコーチたちも、通常は社会人として仕事を持つ若いボランティアである。時差をものともせず24時間態勢で選手に付き添う献身振りは、最近よく見受けられる自己中心の若者像からはほど遠く、弱者にたいする慈愛と協調に満ちていた。

もちろん一口に知的障害者といっても、その技量にはばらつきがあるうえ、健常者と見間違うほどの選手を多数送ってくる国もあり、競技の判定はなかなか難しいところがある。また国際的な競技大会となれば、メダル獲得が一つの励みになることは確かだが、それが出場する目的ではないことを誰でもが心得ており、地元のメディアもその数に関する報道は全くしない。3位入賞以外の選手たちには参加賞が渡され、最後まで力を出し切ってがんばった各選手に送る支援者たちの心からの励ましは、「参加することに意義がある」というオリンピック本来の姿を見るようで誠にすがすがしく、何よりも心温まる思いがする。

  物理的、心理的バリア(障害)をできうる限り取り除き、どのような障害者に対しても可能な限りのノーマライゼイション(正常化)を試みる北米社会。「何ができない」ではなく「何ができるか」に注目し、それに気軽に手を差しのべる一般人や、企業の金銭面、物質面の寄付などを通して社会に貢献する姿勢は、「福祉」というもののあり方を改めて考えさせる。

ワシントンに本部を置いて国際大会の運営にあたる「国際SO」の歴史は、名誉会長として現在も活躍する故ケネディ大統領の妹ユニス・ケネディ・シュライバー氏が、63年に自宅の裏庭を開放し、日ごろスポーツに縁のなかった知的障害者を招いてサマーキャンプを催したことに端を発する。その後組織化され68年には第1回SOを開催したが、約30年後の現在は、加盟国が145ヶ国、各国で活躍する選手は合わせて125万人にのぼる。

日本では現在、熊本、佐賀、大分、福岡、京都、大阪、石川、東京、神奈川、宮城の10地区に地域組織が存在し、94年に全国組織として「S0日本」(細川佳良子会長)ができた。まだ規模は小さく、385人の選手、672人のコーチ、約1700人のボランティアが地道な草の根運動を続けている。今後より多くの賛同者を得て、この世界的な活動が大きく伸びることを切に願っている。

朝日新聞 「論壇」 Nov.3,1997



日本経済新聞「生活家庭」欄

日本人のシニア、老後にカナダ移住「公営施設で快適ライフ」


カナダ最大の人口(約四百万)を有する商工業の街トロント市は、北米のどの都市よりもエスニックの数が多いといわれている。
人口比から見ると他のアジア諸国の人々に比べ格段に少ないが、日本人も六千人ほどが、トロント市とその周辺の地域に住んでいる。

これは長期滞在者と移住者を合わせた数だが、この中にはここ何年かの間に、日本から移住したシニアも含まれている。
そのほとんどは、すでにカナダに定住している子供のもとで、シルバーライフを楽しみたいと積極的に日本を離れる決心をした人たちである。
移住後は子供の家族と同居する人、家やコンドミニアムを購入する人、またトロント郊外にある日系人の多い「モミジ・シニア・センター」に住む人などライフスタイルはさまざまだ。

このセンターは市内に幾つもある公営のシニア向けのアパートの一つである。四年前に建設されたが、他のシニアセンターと違うのは、設立に当たり経費の約二十%(五百万カナダドル)が、日系カナダ人や移住者の寄付で賄われたことだ。

そのため入居にさいしては日系人が優先されるが、十五%ほどは必ず他の人種を居住させる決まりがある。しっかりした運営と、木がふんだんに使われた竹の植え込みもある、明るくて清潔な環境が人気を呼び、現在は五百人ほどがウェイティング・リストに載っている。日本からの視察団も多く、恵まれた環境に「うらやましい」の声も聞く。

入居にさいしての条件はカナダ国籍か移住者の資格があることで、自分で身の周りの世話が出来る六十歳以上の人となっている。
部屋の間取りは各種あるが、夫婦なら二LDKで八十平米位が平均。決して大きいとはいえないにしても、普段使わない物を入れるロッカー二個、駐車料、アメニティー使用料、それに制限なしの光熱費を入れて月約千カナダドルの家賃は高くない。また低所得者に対しては政府の援助がある。

将来健康を害した場合には、全面的にケアの受けられるナーシング・ホームや病院に移されるが、当センターの場合は今のところ出来うる限りここに留まれるような努力がなされている。例えば車椅子が必要になった場合でも、サポート・システムと呼ばれるサービスを使い、掃除、買物、入浴などの手助けを受けながら、なるべく本人が自立して生活出来るよう工夫されている。これはシニアにとっても嬉しいことであると同時に、財政的に見ると、ナーシング・ホームでかかる一人当たりの費用の約1/4の経費で済むためである。

  開館当時からの入居者、斉藤四郎(87)孝子(81)夫妻や辻尾裕(65)和子(64)夫妻は、センターやカナダでの生活を「年寄りに親切で快適なうえ、物価が安いので暮らしやすく日本に帰る気はない」と語る。

生活費は日本の年金と個人資産でまかなわれているケースがほとんどのため、1カナダドルが八十円前後の円高メリットは嬉しいが、一方、消費税・物品サービス税十五%(オンタリオ州)に代表されるカナダの高税率は厳しい。またごく少額ではあるが、十年住めばこちらの年金が支給される。

雪国カナダの冬は長く、時にはマイナス二、三十度になることもある。この季節は正直いってシニアには辛く、運転をしない場合には外出がおっくうになる。しかしセントラルヒーテイングで家の中は温かいため「日本の方が寒さを感じる」という人は少なくない。
「一番の問題は?」と聞くと「言葉」との返事が多い。しかし英語に苦労するのは日本人ばかりではないため、移住者対象のフリーの英語クラスが幾らでもあり、その気になれば六十、七十の手習いも可能だ。

市内に住む在加五年の山野井政市(73)静代(70)夫妻は、「英語の上達は本当に難しい」と言いながらも「いろんな国の人との出会いが面白い」と積極的に学校に通う。
移住後の生活環境はそれぞれ違うにしても、日本とは又ひと味違うシルバーライフを楽しんでいることだけは確かなようだ。

日本経済新聞 1996年9月11日