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作家:志茂田景樹さん
「スペシャル・オリンピックス日本」 細川佳良子会長
作家:森村 桂さん
作家:津島佑子さん
環境芸術家:八木マリオさん
上野千鶴子東大教授



トロントで子供達に読み聞かせ会を開いた志茂田景樹氏


プロファイル:
1940年3月生まれ。モデル、エキストラ、保険調査員、業界紙記者などを経て1976年に「やっとこ探偵」で小説現代新人賞を受賞。1980年に「黄色い牙」の直木賞を、また84年に「汽笛一声」で文芸大賞を受賞した。推理、風俗、伝記、官能、歴史と多彩な作品群で人気を集め、流行作家として活躍。TV出演やロックバンドのプロデユースなどでも注目されている。

奇抜な服装
 もうこれは間違いない反応なのだが、「志茂田景樹」という名前を口にした途端、日本人の十中八九の人が「あっ、あの奇抜なファッションをしている人ね!?」との返事が返ってくる。確かに「奇抜」である。しかしそれは誰の真似でもない、又誰も真似できない、志茂田景樹さん独特のオリジナリティーのあるものだ。失礼ながら余りファッショナブルとは言いがたいが、しかし見る者をとても楽しい気分にしてくれる色使いと、意表を突く組見合わせである。

 6月10日の午後日系文化会館で開かれた、子供を集めての語りの会でも、ブルーっぽいカミソールのトップに、ジーンズの脚を切って創ったショートパンツ。ピンクの網タイツに4、5色の原色が交差する女性用のローヒールの靴といういでたちで、その服装と同様およそ自由な雰囲気の中で、志茂田氏自身の作品である「ひかりのにじゅうまる」と「ちいさいちいさいぞうのひみつ」の2つの童話が披露された。

 昔の紙芝居を彷彿とさせる雰囲気だが、手作りの切り絵や爽やかなBGが耳に心地よく、いつか子供達は創造の世界に引き込まれて行く。もちろんお話しの主人公は幼い子供たちだが、自然を大切にすることや夢を持つことの大切さをメッセージの中に折り込み、大人が聞いても十分に楽しい物語だ。

 また当日はトロントの「語りの会」も前座をつとめ、「狼と7匹の子山羊たち」「鶴の恩返し」など、縫いぐるみやギターを屈指して奮闘した。
 子供への読み聞かせという活動は、現在志茂田さんが一番力を入れている仕事の一つだが、そのきっかけは98年の秋に福岡の書店で開いたサイン会という。集まった大勢の親子連れに、挨拶変わりにアンデルセンの童話を聞かせたところ、大好評だったことから「よい子に読み聞かせ隊」が誕生し全国的に活動を行っている。

 志茂田さんは幾つもの顔を持つマルチタレントだが、もともとが作家で直木賞を始め、小説現代新人賞、文芸大賞を受賞しているほか、沢山の著書もあり、400冊達成の記念日迎えるのもそう遠くないと言われている。
 彼の生き方の根底を流れる自由思想は、「未知の自分を知ろう」というもので、自分の中に「個」を見付けることを推奨する。これは回りに依存するのではなく、回りの中でピカッと光る存在になることと説く。

初めて会うカナダの従弟
 今回のトロント訪問の大きな目的の一つは、長い間音信普通になっていた志茂田さんの父方の親戚を尋ねるという一大イベントが控えていた。父親(直木賞受賞作品「黄色い牙」は、父親が国鉄職員として北海道に赴任していた時の話しがモチーフになっている)は、もう大部前に亡くなっているが、そのお兄さんが遠い昔カナダに移住していたのである。志茂田さんは子供のころから、その叔父さんに当たる人の話しを何回となく耳にていたが、1度も会ったことはなかった。

 この素晴らしいめぐり合いのチャンスは、中に入って両サイドの縁を取り持ってくれたある日本女性の計らいで実現した。初めてのカナダで初めて会う従兄弟とその家族との出会い。志茂田さんご夫婦はもちろんのこと、ワサガ・ビーチ(トロントの北)に住む従弟ジョー・下田氏とクララ夫人一家にとっても、きっと多いにエキサイトした数日だったに違いない。
 付随ながら「志茂田景樹」と言うペンネームは、「茂る田んぼを志す」という気持ちから変名し、また「景樹」は昔父親の書斎で良く目にしていた本に、江戸時代の国文学者、香川景樹というのがあり、その賑やかな名前が気に入って拝借したという。

インタビューでの一問一答
− まず日本とカナダの子供たちの間に違いを感じますか?
 基本的には同じですが、こちらの子供たちの方がよい意味で少し緊張感があるように思います。吸収力が強く素直ですね。

− 子供への読み聞かせの大切さを説く視点はなんですか?
 子供というのは4歳位からは、自分で判断して自分の行動が出来るようになり、徐々に親離れをしていきます。ですから親はそれまでに十分に子供との接触を持ち、特に読み聞かせなどに力を入れておくと、例えその時は内容を完全に理解できなくても、その後の成長に大きな違いがでてきます。

 今日本では親が面倒がって、子供が小さい時からゲームばかりをやらせている人が増えています。もちろんそれも智恵を働かせ、工夫をするという点で決して悪くはないのですが、親子の密接な関係から生まれる豊かな感受性は育ちません。智恵とか知識よりも先に養うべきものはこの豊かな感受性で、それが十分にあれば大人になって行く過程で工夫が広がって行きます。

 人間は悲しみや喜びを心から表現することも大切で、そうした感情も読み聞かせによって育って行くと思っています。また栄養のあるバランスの取れた食事を、小さい時から食べさせることも大事で、そういう環境で育てば、簡単にキレる子供やエゴイストな子と言うのは少なくなるのではないでしょうか。

− 読み聞かせによって見えたものは?
 日本では4人1組になって、保育園、幼稚園、小学校、老人ホームなどに行って読み聞かせをやっています。  子供を対象にする場合は、大人も相手の世界に入り込まなければなりません。例えば僕などは、こうして子供に話しを聞かせながら、実は自分の心が洗われているのです。大人になるにしたがって何処かに忘れたり、或はすり減らしてしまったものを、今子供たちから逆に吸収させてもらっているのだと思っています。

 僕はこの3月で満60歳になり還暦を迎えたのですが、これは新しい0歳の始まりと考えています。ですから3、4歳の子供たちからいろんなことを教わっても何もおかしくないわけで、特に子供の持つ純粋さを学ばせてもらっているのです。
 皆様もご自分で実践されて見ると、僕のいう意味がお分かりになると思いますので、是非それを確かめて見てください。

− 日本では今少年犯罪が大きな話題になっていますが
 日本は高度成長が来るところまで来て、皆がもの指向に走りそれに躍った後に、バブルがはじけいろいろな価値観がひっくり返りました。でも大人たちは其の古い価値観を、まだ子供たちに押し付けようとしていて、そのために大人に心を開かない子が沢山存在するようになり、本音を語らないようになってしまいました。
また心を開いても分かってもらえないというような気持ちになり、自分を追い詰めてしまう子も出て来て、不登校などの現象やいろいろな事件が生じているのです。

 そういう意味でも子供たちに小さいうちから、豊かな感受性が育つような環境を与え、親が子供と同じ世界に入って「遊ぼうね」という気持ちになることが大切で、それによって少年犯罪も少なくなるのではないかと思っています。
童話を読み聞かせるというスキンシップを通して、手や体の温もりが子供に伝われば、それがよい刺激になって脳に伝達するわけです。それはお父さんがやってもいいと思いますが、母親が一生懸命やってあげれば、お父さんは10回に1回にでもいいのではないでしょうか。

− 志茂田さんもお子さんにやったのですか?
 僕は母親に一杯読み聞かせをやってもらって育ったのですが、2人の息子が育つ頃は小説は書かなければならない、講演には行かなければならないなどで忙しかったので、考えて見ると自分の子には余りそういうことをやっていなかったですね。でもそうした忙しいなかでも、ちゃんと飲んで遊んでいた時間はあったんです。これは何処のお父さんも同じでしょう。今これをやっているのはわが身を省みて自責の念が少しあり、これを始めた動機になっていると言えるでしょう。

− 人目を引く奇抜なファッションがお好きな理由は?
 「以前は普通のファッションだったのですか?」と聞かれれば「20年くらい前までは」と言えますが、でも以前からおしゃれでデザイナー・ブランドのものを着てました。奇抜なファッションに変わったきっかけは、自分を素直に出そうと思ったからです。
言い換えれば子供時代の感受性を取り戻したいということなのです。ピーターパン症候群の傾向が少しあるので、何時までも年を取らずに子供でいたいということの現れでもあるのでしょうね。でも大人の社会で本気でそんな生き方をすると、生活出来なくなりますので、せめてファッションで実現させることでバランスを取っています。

− 父親のファンションに対する息子さんたちの反応は?
 上の息子は自分の意思で日本の高校を2年で中退し、アメリカに行ってハイスクールとカレッジを卒業しました。次男の話では父親がへんてこりんな格好をしているので、それが恥ずかしくてアメリカに逃げたのではと言っています。
でも弟の方はなんだかんだと言いながら、僕のファッションを認めてくれているようです。中学3年くらいから誰かにコメントを求められたりすると「父親を尊敬している」なんて、シャーシャーと言ってます。お世辞か百分の一くらい本当なの分かりませんが。

− 最後に志茂田景樹さんからのメッセージを一言
 メルヘンの中に本当の家族があります。

日加タイムス Jun.23,2000

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細川佳良子「スペシャル・オリンピックス日本」会長


2月1日から8日までトロントとコリングウッドで開かれた第6回冬季スペシャル・オリンピックスは、すべての競技を無事に終え8日間に渡る大会の幕が閉じられた。今回は世界八十ヶ国から知的障害を持つアスリート2千人と関係者2千5百人が集まり、和やかで楽しい世界大会が催された。

日本からも8人のアスリートと百人を越すコーチ、家族、サポーターがトロントに集い、当地の新移住者、日系人のボランティアを交えて実り多い交歓が行われた。
金、銀、銅のメダルを取ることよりも、最後まで一生懸命にやり抜くことでアスリートもボランティアも、共にこのオリンピックを楽しむのが大会の大目的。

  日本チームの頂に立つ「スペシャル・オリンピックス日本」の細川佳良子会長に日本のスペシャル・オリンピックスの現状を中心にお話を伺った。

− 冬のトロントにようこそ!カナダには初めてお越こしですか?
20年程前に1泊したことがありますが、 静かでのんびりとしたいい街だなという印象を持ったのを覚えています。

−今回はスぺシャル・オリンピックス(以下SO)の会長という任務で選手、家族、応援団を引き連れての訪加ですが、SOとのかかわりは?
6年前に第8回夏季SOがミネソタであった時、日本からただ一人熊本の中村勝子さんという体操のコーチが、アスリート(古本友子選手)を一人連れて参加し、床運動で銀メダルを取りました。これをマスコミが取り上げたことによって一部の人が「へえーっ、そんなオリンピックがあるの!?」と認識したのです。
でも一般にはSOが知的障害のある人々を対象にした、ボランティアが中心になって行なう世界的な大会であることは、日本ではまだほとんど知られていません。中村さんはこの体験の後、この素晴らしい大会をもっと多くの人に知らせたいと思われ「手を貸して欲しい」と私にお話を持って来られたのです。
お互いに全く知らない者同士だったのですが、こういう運動を広めるには一介の主婦が騒いでも誰も見向きもしてくれないだろうと中村さんは考えたとのことです。

− ちょうど熊本知事夫人としての公務がおありだった頃ですか?
ええ。でもその時はすでに主人が2期(8年)の任期を終え知事を止めると発表した直後でしたので、私も自由な身になる予定でしたし、SOの運動に賛同しましたので「やりましょう!」とお話をお受けしたのです。そこから運動が始まりました。

− でもその後ご主人が急に首相に就任されましたね?
はい。知事を辞めて一年後くらいにもう政治家にはならないと言っていた主人が突然に「新しい党を作る」と言い出してびっくり仰天しました。
私は「冗談じゃない!」(笑)と思ったのですがもう決意してしまったというのです。また私も忙しくなるし、何よりもこの運動が政治絡みになるのは良くないと思って、その時辞めようと考えたのですが、すでに私が声を掛けて誘った人が沢山いて、言いだしっぺの私が身を引く事が出来なくなってしまいました(笑)。
でも選挙などの忙しい時はいいからということで、結局主人の首相在任中も続けて今にいたっています。

− それだけ力を入れておられるにしては日本の中で余り知られていないようですが、、、?
確かにそうです。実は日本にはジャパン・スペシャル・オリンピックス・コミティー(JSOC)と言う組織が18年前に出来ていて盛んに活動していました。ところがここは6年程前、SOの国際本部から認知の取り消しを申し渡されたのです。
それはJSOCがSOの理念通りに運動していないという理由でした。それで私たちの組織が新たにSOの方針にもとずいて活動を始めたのですが、このいきさつがあることでとてもやりにくいという弊害があるのです。

− JSOCの認知取り消しの理由は?
 ボランティアが中心になって動いているSOの運動が、日本の場合はボランティアを育てられずに、行政主導の組織になってしまったのです。厚生省や各都道府県が中心になって力を入れているのですが、それではSOの理念に全く反します。それが取り消しの原因です。

− しかしその歴史を知らない一般の人はその組織とSO運動との違いを理解するのは難しいですね?
 そうです。そこに私たちの運動推進の困難さがあるのです。つまり日本では国も国民も「福祉」というものは、国がお金を出して組織を作り、行政が中心になってやればそれでいいと思っているのです。
旧JSOCは5年前に「ゆーあいピック」と名称を変え、2千五百人も集まる立派な競技大会を開く組織にしているのですが、誰もがそれに対して「それでいいじゃないか」「何が文句があるのか」と思っています。
このSOのようにボランテイアを育て、健常者と知的障害者とがバリアーフリーで一緒に大会を楽しむという方法ではないのですが、いわゆる「収容型福祉」「隔離福祉」と言われる日本のやり方に慣らされているに日本人には、行政中心のそうしたやり方がおかしいと思わないのです。

− しかしこの組織が知的障害者にスポーツのチャンスを最初に与えるきっかけにはなったわけですね?
 確かに18年前までは全くスポーツを楽しむ機会のなかった彼らにその機会を与えたことでは功績があります。
しかし今「ゆーあいピック」の大会に出る子供たちは、養護学校や施設でスポーツ好きな先生によって指導された選り抜きな生徒たちで、知的障害者とはいえ、より早く走れ、よりうまく演技出来る子として育てられます。
そうした子供たちは県大会に選ばれ、その後全国大会へと進みますが、まったく普通の日本の教育現場で見られるのと同じ価値観によって選手が選ばれ、メダル獲得が目的で競技が主体になった行政の補助金による官主導のすごい大会を開くわけです。
私は名称を変えてから2回目の大会が熊本であった時見に行きました。とても驚いたのは厚生大臣からの祝辞などが延々と続く式展の時には来賓席には結構人がいたのですが、本番の競技がはじまったらこういう人たちが全員帰ってしまったことでした。観客席には親と先生しかいないのです。
ボランティアもその日だけに駆り出された人たちで、SOのように民間の人が一緒に楽しみながらアスリートを励まし大会を盛り立てて行くなどという事はまったくありませんでした。
私はそういうやり方には満足出来ないし、「福祉」というのはそんな形で行われるものではないと思っています。

− ではSOの本当の理念は日本の一般の人に分かってもらえるのですか?
 行ってお話しをすると皆分かって下さいます。足を運び一人一人に説明することによって「それはそうだわ。おかしいわ」と日本の福祉のあり方やその方法に疑問を持つのですが、そういう機会がないとなかなか気付かないので、これでいいと皆思っているのです。

身体障害者は自分たちの口で不満をいう事が出来るので、彼らに対する福祉は歩みはのろいですが徐々に変わりつつあります。でも知的障害者たちは自分たちで訴えることが出来ません。施設や学校の先生、または親しか不満を言えないのですが、そうした人たちが言っても残念ながら社会にインパクトを与えません。
毎日そう言った人たちと接している者からの訴えは当たり前と思われるためで、全く関係のない人たちが立ち上がらなければ駄目だと思いました。SOはその一環です。

− 全く草の根の運動ですね。
 その通りです。SOは2年前までは熊本だけでやっていた小さな運動だったのですが、国際本部の方から日本を窓口にしたものでなければ組織として受け入れられないといわれ「スペシャル・オリンピックス・日本」と言うのを設立したました。
94年11月のことですが、この時熊本、東京、大阪にまず組織を作り、それによって95年のコネティカット州のニューヘブンで行われる夏季大会に選手を出す準備ができました。今は13の県が参加しています。

− 将来「ゆーあいピック」との合併はありえるのですか?
 将来はそうなったらいいなとは思っています。「ゆーあいピック」の考え方が、もう少しSOの理念を入れた組織になればのことですが、今の所は厚生省や都道府県の障害福祉課は私たちの運動をとても冷たい目で見ています。全く「余計な事」という考え方です。
ですから養護学校や施設の方たちは私たちの運動に参加しようとはしませんので、今は自宅から通っていたり、作業所などで仕事をしている知的障害者が中心です。

− 日本でSOの大会が開かれる可能性は?
 今のところまだ日本の組織が余りにも小さいためそこまで考える事は出来ません。でも国際本部会長からは「将来の見通しは?」と聞かれています。もう少し日本でSOの認識が広がり、ボランティアが育てばもちろん可能なことです。

− 早くその日が来るといいですね。ありがとうございました。


インタビュー後記:
明るく気さくでチャーミング、その上に知的さと人生経験豊富な中年女性のパワーが加わればもう他に何を望もうか?!指導者としてのカリスマ性を備える細川佳良子さんと共に「世直しを!」と思う力が今後大きく育って行くことを心から期待したい。

スぺシャル・オリンピックス・インターナショナル(SOI)の歴史
1963年夏故ケネディ大統領の妹ユニース・ケネディ・シュライバー(SOI名誉会長)が自宅裏庭で知的障害のある人たちを集めてサマーキャンプを開催。
1968年ケネディ財団の助成金をうけ、第一回夏季SPを開催4年ごとの夏季大会開始。
1977年第1回冬季オリンピック開催。4年ごとの冬季大会開始。
1997年トロント、コリングウッドにて第6回冬季オリンピック開催。


日加タイムス Feb.14,1997

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作家 森村桂さん


 もう32年も前になるが、当時、世の若者たちの胸を掻き立てた「天国にいちばん近い島」という本を覚えているだろうか?これは南太平洋の孤島、ニューカレドニアに一人で出かけて行った著者、森村桂の冒険物語で、売れに売れたベスト・セラーである。この本に触発された「元若者たち」には、ノスタルジックな思いなしには語れない一冊だ。
 人生にとって夢を追い続けることの大切さをとき、その夢の実現に自らも楽しみながら一歩一歩歩いて来られたその著者が今トロントに滞在している。新春の明るい話題にふさわしい「夢配達人」の人生とは?

− 新年あけましておめでとうございます。今回のトロント滞在の目的は?
 おめでとうございます。旅の目的は1月14日放映のNHKの衛星放送「世界・わが心の旅」の番組録画のためです。私は30数年前に、ある施設出身の人々と関わりを持っていたのですが、その何人かがこのトロントに新生活を求めて渡って来ました。日本にいたら彼らのバックグランドだけで能力ある若者が駄目になりますが、ここではそんなことは関係ないので、来加してから頭角を現し各方面で活躍している何人かと再会し同窓会を開いたのです。
 それと同時にカナダはいろんな国の人たちが仲良く生活している国で、特にトロントはチャイナ・タウンとかギリシャ人の街とかいろいろと興味のある場所が沢山あり、いろんな所でスケッチをしたのでその個展を開きました。一番の大作は15号を15枚連ねた「トロントは地球の夢」と題した作品で、また同名の創作ケーキも作りました。

− 作家である森村さんが絵を描かれ始めたいきさつは?
 確かに私は長い間原稿を書く仕事をしていて、今までに80冊ほどの本を出版していますが、12年前に軽井沢に「アリスの丘」という手作りのケーキとジャムのお店を開いたのです。ところが毎日ケーキの粉を練っていて腕の神経をやられてしまいました。で主人が「絵はどうか」と進めてくれて筆慣らしをしているうちに、頭の中にいろんな物語が浮かんで来るのです。例えば沼が見え、飼っていた猫のプーさんが落っこちてしまう。でもやさしいヘビさんが現れて体を枝に巻き付けて助けてくれるとか、また枝から葉が落ちてくるとそこにリスさんが乗っているように見えてしまう、というような現象が起こったのです。それでどんどんそうした物語を描き溜めているうちに半年ほどして原宿の画商さんが軽井沢で個展を開いて下さいました。それがきっかけで以来一年に一度くらいのわりで日本各地で個展を開いています。

− 神戸大震災の時も絵を通して被災者救済をなさっていますね。
 私は体が弱いためすぐ駆けつけてお手伝いが出来ませんでした。それで私の展覧会の時に、被災者の方たちに絵を描いてもらうようお願いしたら3才の保育園児から外国人まで3百人くらいの人たちからとてもいい絵が送られてきました。私も地震の時の火事の様子をバックにして、泣いている人魚の涙の一粒一粒の中に、亡くなった方たちが天国でかくあったらいいな、という姿を描いた「人魚の涙」という百号の絵を制作しました。今神戸市庁舎に掛かっています。

− 震災一年目の記念行事の時に贈呈したとか?
 ええ。丁度一年後の今年の1月17日に作家の森村誠一さんが大震災を悼む組曲を作詞なさって、神戸市民合唱団がそれを歌ったのですが、その時に私の絵の除幕式も行ないました。市長さんは「現代の曼荼羅だ」ととても喜んで下さったのですが、森村誠一さんは今まで描いている私の絵を評して「この世とあの世とを行ったり来たりするイメージを与える絵だ」(笑)とおっしゃってました。

− 本当に不思議なイメージを与える絵ですがヒントはどこから?
 まだ絵を描き出して間がない頃、ある時漫画家の手塚治先生にお会いしました。その時先生は私を励ましながら、自分は「絵のアイディアはバーゲンセールするくらいある」(笑)とおっしゃったのです。残念ながらその後すぐに亡くなられてしまったのですが、でもそれ以来先生を思い出すと、その時の言葉と同じように私にも絵のアイディアが雨のように降り注ぐんです。絵を描き出して7年になりますが、何を描こうかと迷ったことは一度もありません。これは手塚先生ばかりではなく、小さい時からお付き合いのあったシュールリアリズムの画家で、文化勲章も授与された福沢一郎さんが94年に亡くなった時も、先生の絵の中の人物たちが真っ暗闇の中に降り注ぐのが見えました。また写真家の三木淳さんからも同じような思いを味わっています。本当に才能のある方たちというのは、亡くなった後必ず誰かにイメージを受け継がせるのではないでしょうか。私はそうした亡くなった人たちから守られていると強く感じるのです。

− 亡くなられたお父様(作家・豊田三郎氏)からの力も感じますか?
 はい、とても。父は私が19の時に心臓発作で突然死んでしまいました。駆けつけた時にほんの1時間程話したのですが、その時父は「桂が世に出てからの方がいいんだけど」と一言いったのです。普通なら「お嫁にいってからの方が」とか「大学を出てからの方が」とか言うと思うのですが、後からこの父の言葉を思い出すたびに、あれは生きる指針ではなかったかと感じました。父の死後は経済的に苦労しましたが、でも本当にお金がなくて困るとふと父の本の印税が舞い込んだりしてましたし、ニューカレドニアに行った時も、碧い海の向こうに父がいるという風にいつも思ってました。

− 創作ケーキ作りをするようになったいきさつは?
 私はケーキ屋を始めるまで軽井沢の馬小屋みたいな家で「アリスの丘の物語」というのを連載してました。でもここは冬になると室内がマイナス10度位になり、飲んでいるお茶が凍ってしまうような家で、電気毛布で生き延びていたのです。主人は週末ごとに東京から通って来てましたが、これが大変でとうとう仕事を辞めケーキの店を始めたのです。そして私が洋酒に漬け込んだ干しブドウを使って焼いた「幸せのお菓子」(商標登録済)というケーキを創作してお客様に食べてもらっていたのですが、その夏軽井沢の近くの御岳山で日航機の墜落事故があり親友の坂本九ちゃんを亡くしました。もう「幸せのケーキ」どころではなくなってしまったのですが、その時ニューカレドニアで聞いた九ちゃんの「スキヤキソング」を思い出し、その島で食べた「バナナケーキ」を作るようになったのです。でもその時使ったベーキング・ソーダが日本では手に入らなかったので、それを入れ忘れたと称して「忘れんぼのバナナケーキ」と名付けて売るようにしました。

− 森村さんはケーキ作りにめり込んだ最初の動機は?
 私はクリスマスがお誕生日なのですが、父が亡くなった時にお隣の心やさしいご夫妻が半分に切ったクリスマスケーキを持って来て下さったのです。すごく立派なケーキだったのですが、私はやはり自分で丸いケーキを切ってみたいとその時思いました。その夢を持ち続けたのが原因でしょう。でもその前にも当時では珍しいオーブンを奨学金を使って買ったりしています。

− ケーキ作りを通して天皇御一家ともお親しいとか?
 「アリスの丘」を開店した次の年の夏に、皇后様がご病気になられ軽井沢で御療養なさっていらした時、嫌な病気のことを忘れて欲しいと思って「忘れんぼのバナナケーキ」を焼いてお届けしたのです。その後もお誕生日に「アリスの小路」というケーキを創作してお持ちしたらとても喜んで下さり以来毎年お届けしています。これはケーキの中が不思議な小路の迷路になっているのですが、日本の有名なフランス菓子屋さんも作り方が分からないと言っています。
 また絵を描き出してからは、皇后様がウサギさんがお菓子を作っている絵を気に入って下さったり、天皇陛下がご病気の時「忘れんぼのバナナケーキ」のご注文を頂たいた折りに「たんぽぽの赤ちゃん」という絵と共に送ったりしました。そんな関係で皇太子様がご結婚なさる時に7年越しの恋を模した創作ケーキもお送らせて頂いたのです。

− 一番最近出版なさった「天国にいちばん近い島よ永遠に」という本(96年8月出版)は、写真とスケッチが一杯の楽しい本ですね。
 32年前に「天国にいちばん近い島」を書いた頃は、まだ日本は夜明け前で私は「どうにかして外国に行きたい!」「外国の地を踏んだらもう死んでもいい!」(笑)と思っていた時代に若者に夢を売っていたのですが、今は高校生が夏にアルバイトしただけで外国に行けてしまう時代ですから、私のように「夜明け前の人間」は用がなくなってしまいました(笑)。あの初版が出てからすぐにニューカレドニアには週3便のジェット機が飛ぶようになりましたが、皆が「天国にいちばん近い島」と思っているので荒らさないそうで、お陰でサイパンやハワイのようにならずに済んでいるので感謝されています。その島を21年振りに訪れた一昨年の暮れから2ヶ月程の体験をまとめたのがこの最新版の本です。キャンバスを持ってスケッチを沢山しました。

− 民族融合のトロントがお気に入られたようですが、、、
 ええとても。それにここにはいろんな国の食べ物が一杯ありますでしょ。そしてそれが肉でもパンでも美味し過ぎないよさがあって楽しいですね。まあ、ないのは私の創作ケーキだけです(笑)。またトロントはメキシコ、ニューヨークなどにも近いですし何か世界の中心という気もしますし、少なくとも春頃までは滞在したいと考えています。

− 楽しい御滞在になりますように。ありがとうございました。


インタビューを終えて:
 「夢見る乙女がそのまま大人になった」という表現が一番ピッタリだろうか? このトロント滞在がまた森村さんの次の夢へのステップになることを祈りつつ。皆様にとっても実り多い1年でありますよう!

日加タイムス Jan.1,1997

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作家 津島佑子さん


もしも、物を書くことを生業(なりわい)にしている人なら、誰でも一生に一度は「文学賞」と呼ばれるものを取りたいと思うだろう。
毎年恒例の「国際作家フェスティバル」(トロント・ハーバーフロント・センター主催)にこの10月末に招かれた津島佑子さんは、その文学賞を8つ(96年11月現在)も手にしている。いうまでもないことだが、作家の故・太宰治氏を父親に持つ。
フェスティバルでは英語に翻訳された作品の朗読会、日本人コミュニティー向けの朗読会、ヨーク大学の教授による公開インタビューなどのスケジュールをこなされ、初めてのトロント滞在を有意義に過ごされたようだ。
私とのインタビューは、普段は余り垣間見られない「素顔の津島佑子氏」像を中心にお話を伺った。


カナダとの関わり
− カナダ文学の知名度は日本では余りないと思いますが、今までに何を読まれ、また文学者たちとの交流は?
残念ながらあまり詳しくはありませんが、4年ほど前にスリランカ生まれのカナダ人作家、マイク・オンダージという方とメキシコでお会いしたことがあります。これは地球の未来を文学者とエコロジストが一緒になって話し合ったらどういう良いアイディアが浮かび上がるかという変わった会議でした。
私はアイヌの叙事詩を紹介しながら、日本の文学が見失ってきたものなどを話したのですが、その時にオンダージさんが私の仕事に興味を持って下さって、自分が主宰するスリランカの文学雑誌に紹介したいと言われ実現しました。とても強烈な印象の残る作家でした。後はもちろんマーガレット・アトウッドさんの作品は読んでいます。

− 今回の作家フェスティバルにご持参の作品は一番最近書き終えた短編で、翻訳も出来たてということですが、英語の完訳が出来るのはいつ頃ですか?
これは「群像」という文芸雑誌に載せたもので、私の一番新しい短編です。この雑誌は戦後すぐに発刊されたのですが、今年で50年目を迎えたためその特集ということでいろいろな作家が書いています。
私のは「野辺」という作品ですが、英語の題で大分迷ったのです。本来の意味の「Field」や「Graveyard」などを考えたのですが、結局話の内容とかみ合わせて「Homeground」と決めました。今のところ英語の本として出版されるかどうかの見通しはまったくありません。今回トロントに来るので急ぎ翻訳してもらったので、まだ湯気が出ているくらいです。

− 毎年恒例の「国際作家フェスティバル」は、世界各国ら作家が来て自分の作品を読むのですがご感想は?
ただ作家が来て舞台で自分の作品を読むというだけで、他に面白いことがあるわけでもないのに、聴衆がお金を払って集まり、一生懸命聞いているというのに驚きました。つまりトロントにはそうした知的レベルの層がいるのだなとびっくりしたのです。日本なら無料で何かの付け足しでやるには来るでしょうが、有料ならあれほど集まらないのではと思います。

− 外国に出られてこのような形で舞台に立つことなどは、他の国でもありますか?
ええ。でも普通はシンポジュームやレクチャーのようなものが多いです。朗読会のようなものの場合は、もっと小規模な場所、例えばカフェのような所でこじんまりとやることはありますが、大きな場所でしかも聴衆がお金を払って(笑)というのは今回が初めてです。

− 一番関係が深い外国というとどの国ですか?
やはりフランスが多いですね。翻訳本も一番出ていますし、その関係で知り合いも多いですから。部数としては多くないのですが、やはりその国の言葉に訳されていれば結びつきも強くなりますし、読んでくださる読者がいるということはありがたいことだと思います。 他にドイツ語、イタリア語、ノールウェー語、韓国語などにも翻訳されています。ヨーロッパの場合はマーケットが小規模ですから小回りが利いて、売れる売れないに関係なく出版してくれるようなところがあるのですが、アメリカの場合はなかなか難しいです。

− 英語訳の本は何冊くらい出ているのでしょうか?
3冊です。「寵児」「山を走る女」「射的」です。「寵児」は手に入りますし、「射的」はこれから増刷される予定になっていますが、「山を走る女」は絶版になってしまいました。

− カナダの小説といえば「赤毛のアン」で、今でもこれは日本の少女に読まれています。津島さんも10代の始め頃に読まれたようですね?
ええ。確か最初に読んだのは小学校5年生頃だと思います。当時はまだ全部出ていなかったので、新潮文庫から出版されるのを待っては読んで、また次のが出るのを待っては読んでいました。全部を読み終えるのに中学1年までかかったのを覚えています。言ってみればあれも多少おとぎ話みたいなところはありますが、一種の「カナダ版・女の一生」ものでしょうね。男の子と出会ったり、また女友達ともいさかいしたり仲良くなったりしながら、結局その女性と終生の友達になるなどといった物語が、日常的に受け止められるので、遠い国のお話と言うのではなく、子供心に親近感を持って感じられるのではないかと思います。
等身大の外国文学と言えるわけですが、それまで読んだ「小公子」「小公女」みたいなものは自分たちの生活からは遠いものでしたから。

− 外国に住んで活躍しておられる作家、例えば塩野七生さんとか、最近では河野多恵子さんなどがおられますが、津島さんもそんな可能性が生まれることはありますか?
人生の必然性があればそれも可能でしょう。例えば政治的に日本が突如軍事政権になってしまったとか(笑)。
まあ、人生にはどんな事情が降りかかって来るか分かりませんから、何が何でも日本にいたいというのではありませんが、日本語を使ってここまで文学をやっていますので、その点から考えると日本にいるのが一番いい環境であると思います。でも4年ほど前に1年間フランスで暮らした経験があるのですよ。

− で、その時のご感想は?
もちろん日本語の本は手に入るので問題はないのですが、例えば街を歩いていて耳にする日常的な言葉などがわからないので、そういったレベルの日本語がだんだん薄れていくなという感じはありました。日本にいると“日本語を使う”ということが当たり前のことで、空気みたいなものになっていますし、体に染み込んでいる母国語ですから絶対に忘れないだろうと思うわけです。でも漢字なども時々ふと分からなくなってしまうことがあったり、だからといって完全に忘れてしまうということはないわけで、言葉というものは如何に住んでいる環境に左右されるかを自覚し、言葉と人間の結びつきの面白さを知りました。


仕事のこと
− お仕事はワープロをお使いですか?
いいえ。私は手書きなのですよ。

− うわー、今時希少価値ですね(笑)
らしいですね(笑)。随筆などはワープロを使うので、使えないわけではないのですが、今さら変える理由もないのでそのままにしています。
ワープロって「変換」がありますでしょ。あれが嫌いなのです。思っていた漢字がすぐに出てくれるといいのですが、とんでもないのが出たりするのが煩わしいのです。「まだ出てこない。まだ出てこない」と思うとイライラしてしまうのです。

− 小説家には最初から筋書きを決めてそれに沿って忠実に書く人と、そうでない人とがいると聞きますが津島さんの場合はどちらですか?
もちろんある程度の計画を立てて書き始めます。でも長編になると最初はこういうふうに筋を運ばせようと思っていたけれど、この程度にしておこうか、なんていう小さな変化がだんだんと時間がたつにつれて思いがけない結果になったりすることもあります。それが面白いといえば面白いことで、短編ではそういうことは起こりえません。

− とてもたくさんの文学賞をお取りになっていますが一番最近(96年11月現在)のは?
2年前に小樽でやっている「伊藤整賞」を「風よ、空駆ける風よ」で頂きました。あの小説は文藝春秋に連載したのですが、足掛け4年かかった長編です。3年目でフランスに出かけてしまったため1年休んで、帰ってからまた1年かけて完結したのです。やはり賞を頂くのは、評価されたということで嬉しいですね。

− 大体どのくらいの割でお書きになるのですか
私は少ないですよ。結果的に自分の仕事を見ると、大体3年の間に長編と短編を1本ずつ書いています。やはり長いのが終わるとしばらくはぼーっとしますね。

− 小説を書く喜びとは?
私は自分が伝えたいと思うことを小説に託して伝えるわけですから「これは届くぞ」と思うものが書けた時、またそれを受け止められたと感じられた時はとても嬉しいですし、反応がなかったときは悲しいですね。

− 今進行中の長編小説は?
「群像」に連載している「火の山」という小説です。「山猿記」と副題が付いていてお猿さんが書いたという形を取っています。話は山梨出身の母方の家族の歴史を探り、天保辺りまでもちょっと触れたりして、最後は敗戦くらいで終わるつもりでいます。山梨というのは存在感が全然なくて妙に田舎なのですが、そこを家族のルーツを掘り起こすことで見てみようかというわけです。

− またお母様がモデルになるわけですね?
小説家が家にいると家族は生かされたり殺されたりいろいろとモデルになって大変です(笑)。まあ今回は若い頃の母ですからいいでしょうが(笑)。

− 今は若い人たちが純文学のようなものは余り読まないと聞きますが?
ええ、確かにそうです。“若者は忙しくてその暇がない”という言い方ができるらしいですね。それに今はインターネットとかEメールなど自分の意見を簡単に言える場所というのがあるので、そんな所で「発表欲」や「自己表現力」が満たされてしまうからとも言えるかも知れません。私たちの時代はそういったものがなかったから、新聞に投書したり小説を書いて自分の思っていることをそれ相当の文章で表現して誰かに伝えたいと思った分けです。
“村上春樹以降”という言い方ができるようですが、その辺りから日本文学が変わって来たのを感じますね。手ごたえのない軽いファンタジー風なものが多いとは言えますね。皆そういう風潮に抵抗を感じながら、やはりその勢力に押されています。

− 例えば山田詠美の作品のような?
ええ。どこの国のどういう場所が背景にあって、どういう人間関係を背後に持っているのか分からないような内容で、どうして小説といえるのかと思いますが…。
若い人の小説を読むとここは何処なのかしら?これは何処の国の人なのかしら?と疑問を感じることが多くて、私はそういうのが全く駄目なのです(笑)。物足りなさを感じるのです。


家族のこと
− 親にとって子を失うほど悲しい経験はないと良くいわれます。津島さんにはその経験がおありですが、その辺りのことをお話いただくことは出来ますか?
今から12年前に、お風呂場で脳しんとうを起こして亡くなりました。生きていれば20歳になります。もちろん私の頭がおかしいわけではないので(笑)、事実としての死を認めていないわけではないのですが、心理としては容認していないようなところがあります。 ほかに24歳の娘がいますが、彼女がいるとまだ3人で一緒にいるような感じになります。こちらはこちらの持ち場を守り、向こうは向こうの持ち場を守っていて今ちょっと別居している、そんな気持ちになります。でもその時の頭の中の息子は20歳ではないので、その辺で現実を教えられるということになるのですが....。

− 肉親であるお父様(作家・太宰治氏)、お兄様、そして息子さんとの死別が津島さんの文学に与えたものは何ですか?
私に小説を書く力を与えてくれたのは脳障害のあった3歳年上の兄の存在が大きかったと思います。小さい頃、母が私と兄を「双子のようだ」と言ったくらい2人は近く、母にも分からないことが私には分かり、いつも言葉のない兄の通訳をしていました。
彼は人間的な思いや感情や知恵に満ち溢れていて、人を愛することを知っていましたが、それを自分で表現することは出来なかったのです。でも肉体が死んでしまえば、後には何も残らないわけです。その点父も小説は残しましたが、若くして亡くなりました(39歳)から、まだ言いたいことがあったのではないかという思いもあります。
家族ばかりではなく、語らずに死んでいった多くの人の気持ちを代弁したい、という気持ちが文学に進むことを選んだのだと思います。私はその辺の石にも木にも水にも霊があり、すべてのものに命は対等に存在しているのだと考えています。今私がここに存在するのも命の継続が何世代も続いた後にあるのだと思います。もし人間中心の近代主義ばかりでは淋しいのではないですか。

− お父様の本はいつ頃からお読みになりましたか?
10歳のころ、なるべく漢字の少ないのを選んで読みました(笑)。家族が書いた作品というのは個人が残した日記を見るようで文学作品としては読めないようです。ただ何を考えていたかを知りたかったのです。私のことを「なんてかわいくていい子だ」なんて書いてあるかと期待していましたが、何もなかったのでがっかりしたのを覚えています(笑)。 それに戦後だったので、家には蔵書と言われるようなものは余りなく、父の物は文房用具なんかがみかん箱に入っていたのを覚えています。

− 娘さんも文筆関係のお仕事ですか?
いいえ、全然(笑)。文学には反発だけを感じたらしく、そちらの方面には興味がないようで、今は建築関係の会社に勤め、資格を取るための試験勉強をしています。
家の中で親を身近に見ていると、子供は大体親がやっていることは嫌だと思うのでしょう。 私も父が生きていたら作家にはならなかったでしょう。親がいつも本を読んでいるような家だったら、きっとうっとうしいと思いますよ(笑)。

− 40歳半ばで改めてパートナー(藤井定和東大教授)と一緒に生活をしておられますが、経済的にも社会的にも自立している津島さんが決心なさった動機は?
若い時にそれこそ若気のいたりの、瞬間をかすめるような結婚を3年ほどしまして娘を産んで離婚してしまいました。死んだ息子の父親とも一緒に住んだことはないので、ずっと一人でやって来て、やはり普通の生活が羨ましかったのではないでしょうか。「隣の芝生は青く見える」というのと同じなのではないですか(笑)。カップルで協力できる生活も悪くないと思ったのです。

− お母様は一人身を通されたのですね。
ええ。母は37歳で夫に死なれ、ずっと一人で生活して来ました(注・1997年2月に死去)が、それを見て私は別の方向に行きたいという思いが強くなったのだと思います。もし母の生き方を見ていなかったら、余り考えなかったかもしれませんが、一人で老後を生きるのがいいのか、カップルでやっていくのがいいのか考えてしまったのです。
それに娘ととても近くなり過ぎて、娘を自立させるには離れなければならないな、なんて理由もあったりして、そこに昔の文学仲間の彼がいたという偶然が重なったのです。成り行きというか(笑)、人生のコンパニオンを見付けたという感じです。

− 異母姉妹の太田治子さんとはお付き合いがあるのですか?
不思議なご縁でこの世に2人が存在しているわけで、お互いに恨みがあるわけでもないので、何らかの精神的助けが出来ればいいなと思い、それぞれが社会に出ようという大学時代の終わりの頃に、いろいろと話をしていた時期はありました。
でも肉体的要素は似通っていても、人間というのは育つ環境で決まっていくもので、まったく他人だと思った方がいい関係なのだということが、その時お互いに分かったのです。 日本は割合血のつながりを大事にするところがありますが、例えば自分の子供でも何かの事情で一緒に生活出来なければ、それは子供とはいえないのではないかと思うのです。 やはり育てて苦労して、さんざんうんざりさせられて(笑)初めて自分の子供と言えるのではないかと私は考えます。


日常生活のこと
− 日常の雑事はパートナーの藤井教授と分担しているのですか?
忙しい時には無理をしないで手伝ってもらいますが、向こうは(手がのろいので)やっているのを見ていると私はイライラしてしまうのです(笑)。ご飯の支度などは、やはり私の方が手早いですからやってしまいます。
母は同じ敷地内に住んでいますが、別棟で生活しヘルパーさんに来て手伝ってもらっています。生活のサイクルが違うので一緒には住めません。

− 毎日のスケジュールは?
私は夜型ですから、大体はお昼頃までは寝ています。午後はファックスを送ったり、ちょっと出かけたり、また家のいろいろな雑用を片付けたり....。買物や夕食をおえた後8時頃からが仕事の時間になります。私は浮世のことはもうこれで何も心配がない(笑)、すべてやってしまったという状態にしないと、全身で小説の方に入り込めず、そうしないと気になって仕方がないのです。
また2人が家の中でお互いに邪魔しないで仕事をするためには、相手との時間をずらす必要もあるのです。私がガーガー寝ている午前中は彼が一人になれるし、彼が寝た夜中に私は一人になるわけです。特に長編を書いている時などは、レンガを積むようにこつこつ仕事をしていますので、毎日書くペースは崩せないのです。


日本と日本女性について
− 女性に絡む日本の中の問題点は?
日本というのは戦後51年たって振り返って見ると、今まで「復興」という旗印を掲げて、それに向かってまっしぐらに走って来ただけで、いろいろなことを置き去りにして来たことに気付きます。これからは何を積み忘れているかを見直して、考えて行かなければならないという努めが文学者にはあるのではないかと思うのです。
歴史を掘り起こして、戦争の意味を考えるとか、あるいは従軍慰安婦の問題などもそうですが、人道的犯罪に関することに日本はツケを払っていません。そうした態度が日本の中のいろいろな問題点、例えば女性の就業問題や均等法などに矛盾を生み、ひずみが現れてくるのです。これらの問題は巨大ですから簡単には解決できない事柄ばかりでこれから大変です。

− こちらでは当たり前の夫婦別姓問題も日本では難航していますがどうお考えですか?
これはすごく重要な問題だと思います。要するに「こうしろと言われない権利」が大切だと思うのです。

− でも林真理子さんなどはその権利を獲得したところで仕事を持っている女性は別だが、家庭の主婦などには何の影響があるのかと言っていますが。
いいえ。私は気が付かないところで意識の変化がおきると思います。表面的なつまらないことではあるけれど、その影響はとても大きいと思います。

− ありがとうございました。


インタビュー後記:
「文学賞を7つも8つも受賞している女流作家」「父親は戦前から終戦直後までの日本文学は、この人をなくしては語れないかの有名な太宰治氏」。それだけでも充分に身構えてしまうのに、加えてこちらは外国生活ということで、津島さんの最近の作品が簡単に手には入らない不便さが上乗せされている。そんなちょっぴり重い気持ちを抱えながらお会いしたが、あにはからんや、こちらの不躾な質問にも嫌な顔もせずお答えくださった。もし津島さんの小説、特に長編小説を一冊でも読まれた方ならお分かりだろうが、いつもそこには人生に対する真摯な姿勢が感じられるが、これは会話の中の言葉の端々にも同じように感じられて「本物の文学者」とはこういう方を言うのではと思った。また一人、素敵な女性にお会いして素敵な時間がもてたことを感謝したい。

日加タイムス Nov., 1996




環境芸術家、八木マリオさん


 「環境芸術」ということばを耳にしたら読者はまずどんなアートを想像するだろうか?
 北米ではSight Specific ArtとかEnviromental Art、またはEarth Workと呼ばれているが、これは自然に逆らうことなくその流れに一体化しながら、人間が今置かれている環境を地球的規模で見つめ、そこから感じるエネルギーを彫刻や絵に具現していくものとでも解説できようか。
 そんなアーティストの一人八木マリオさんは、その芸術コンセプトと同様に日本という狭い地域にこだわらず、国境を越えて「世界を仕事場」として活躍する彫刻家である。  テーマは「縄」。「これは人類誕生以来、人類が作り出した自然界と同じ螺旋の形です。つまり太古の昔から今に至るまで、あらゆる民族が日々の暮らしの中で、神話とか見えない世界との交感に螺旋の動きや縄の形を使って来ました。人、他の生物、地球、宇宙などとのそれぞれの繋がりを、縄という力を通して人々は感じ取ってきたのではないかと想像するのです」と、八木さんは縄と人との関りを説く。
 名前もユニークなら人物もまた飛び切り魅力的な女性。日本から親しい友人であるトロントのアーティスト飛鳥童さん宅を訪れたさいにお会いする機会を得た。

− 環境芸術とは余り聞きなれない言葉ですが.....
 ええ、日本語ですとそうなのですが英語でいうと分かりやすいですし、こちらの人はすぐにピンと来ます。日本ではまだ珍しい分野で、ひどい時には「し尿処理ですか?」なんで聞かれる事があります(笑)。

− テーマの「縄」に至った経緯は?
 もう24、5年前になりますが、ある日京都の街を歩いていて仏具屋のようなお店のガラス棚に古びた麻縄のようなものがぎゅっと押し込められているのを見ました。この時私は全身が震えるような思いを味わったのです。日本はその頃70年万博を終え経済効率一点ばりの風潮で、ホテルや巨大商業建設に華やかさを競いあっていました。私も70年に京都市立芸術大学の環境デサイン科卒業と同時に、環境芸術パブリックアートの視点から設計デザインや彫刻、庭、広場などの請負制作、施行に追われていました。でも日本の高度成長の波に何か空ろいだ想いを抱いていたことも確かです。そんな時この使い古された何でもない普通の縄に出会い大きな衝撃を受けたのです。

− 店の片隅に置かれたなんでもない縄にインスピレーションを受けたわけですか?
 ええ。その時から縄というものが持つ何とも不思議な力の虜になってしまったのです。多分それは経済至上主義とか科学技術至上主義の世の中の流れに対して、もっと自然と人類との関係を深く見直さなければといけないのでは、という想いを感じていたからだろうと思います。

− 八木さんは日本での御活躍よりむしろ外国の方で、より名前が知られているようですね。
 日本にも例えば京都精華大学の「地軸」とか、大阪の千里中央センターや貝塚市などにも作品がありますが、外国の方が活躍の場が多いですね。日本では年配の男性の芸術家は女性を嫌がりますし、また画廊のオーナーは女性が多いので男性作家の作品展を開きたがります(笑)。それに国際的なプロジェクトは日本では出来ませんのでやはり外国に出て行くことになるのです。

− 1992年6月にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれた地球サミットにはアーティストとして参加なさいました。その時はどんなことをなさったのですか?
 このサミットの有意義な成果の一つは、現在の地球環境について愁えているいろいろな分野の人々が、初めて一堂に会したことです。私は自分の作品を通していつもこの環境問題を提起して来たわけですが、ここで「おまめプロジェクト」というのをやりました
。「おまめ」というと日本語みたいですが、これはアマゾンに住むインディオの創造主である神様の名前なのです。おまめは先ず自分自身を、そして森、空、空気、水などを創り自然に彩りを与え、また自然のすべての創造物に潜む精霊であると信じられています。ですからおまめは芸術家でもあるわけです。そこであらゆるジャンルのアーティスト、例えばミュージシャン、演劇、映画関係、ヴィジュアル・アーティストなど64名が集まって、プレ・サミットとしていろいろなインストレーションをしたのです。
 私は単に自分の彫刻を縄というコンセプトを使って現すのではなく、もっと世界の人々と何かコラボレーション出来ないかと思い、路上生活の子供達、マイノリティーの人々に集まってもらって古着などを使用して作品を作りました。その作業を通して人と人との心の絆を深め、世界は一つだという思いに繋げて行きたいと思いました。
 縄というものが、あらゆる生物が持つ遺伝子のDNAを初めとする宇宙生成の螺旋構造に似ている事から、言語、文化、国境を越えて繋がっていることを実感してもらい、縄によって結ばれると言う事を感じてもらいたかったのです。

− アイルランド・北メーヨー地方のラックン湾の遺跡の作品も同じコンセプトですか?
 縄スケープは限りなく躍動する創造のエネルギーを表わします。この場所は5000年前の遺跡の後ですが、そこに私の作品が同化しています。あらゆる生命の相互の繋がりと美しいDNAを終わらせることなく伝えるのです。これから5000年後はどうなるでしょう。

− 神戸震災1周年では東灘区の弓弦羽(ゆずるは)神社でも古いTシャツを1万枚集めて大縄を作ったという事ですが...。
 私は神戸の御影市生まれですが、ここも220人の犠牲者を出しました。もちろんこの神社も被害を受けたのですが、この裏手の洋館が私の生家です。
 そこに地上八メートル、太さ1メートルもの大縄を地域の人と一緒に創って震災1周年の1月17日に火を放ちました。何でこんなことをするのかと思った人もいたようですが、皆で一つの縄を作るという過程で命の連続を認識し、また隣り合った人との連帯が生まれます。大切なのは完成品ではなくこのプロセスで、ここで生まれたコミュニケーションを広げていくことによって、自分の住む地域、また神戸の街の復興に繋がるエネルギーが生まれて来る事を願っています。

− 素材はどのように集めたのですか?
 御影連合青年会と協力して呼び掛けたのですが、400通のメッセージと共に古着やタオル1万枚が届いたのです。それをまず棒状に巻いていき、撚りをかけ押さえつけて隙間なく縄をなっていったのです。

− オリンピックでも同じ様な企画を考えていらっしゃるのですか?
 今年のアトランタではなく、2000年のシドニー・オリンピックに向けてNYでチームを組んで今その準備を始めています。
 また21世紀にはバイカル湖と南米のチリの最南端で同じような試みをします。要するに地球を串刺しのようにして、すべての人類のアクセスを創りたいと考えているのです。ですからこのシドニー・オリンピックでのインスタレーションはそのための準備です。21世紀はアートの時代と言われていますが、それは何故かというと精神世界が物質世界より大事だという認識が出来て来ているからです。その世界の平和を実現しようという過程で何が大切かというと、縄の一本一本が大事にされながら初めて太い強い縄になるというコンセプトであり、また一人一人がそれぞれ個性を持って他と違ったものを持っている事によって、それが返って締まっていく力と反発する力とで、より強い物を創りあげていく事が出来るという思いに繋がります。

− 仕事が多岐に渡っておられますが、そうした人脈を通して照明器具を作られるようになったのですね?
 ええ。イタリアで製造販売しているガルボという商品名の照明器具ですが、NYやヨーロッパで主に売られています。特にドイツなどではどこでも見られ、天井から糸がスクリーンのように下がっているデザインで、もう20年以上にもなるヒット商品です。丹下健三さんは京都的で嫌だと言われたのですが、インダストリー・デザイン協会の理事長である栄久庵憲司さんは、証明器具というイメージではなくインテリアの空間を作っている感じがして好きだとおっしゃって下さったのです。76年にヴォーグ・カーサというところから賞を頂きました。
 面白いのは3年位かかって作り上げたのですが、いつまでもこのイタリアの会社が売りだそうとしないのです。どうしてかなと思っていましたら長い間眺めていて飽きないかどうか、普遍的にいいものかどうか見ているというのです。日本ならお金が入りそうだとなればすぐに量産して売りますし、大体回転率は半年くらいで終りにしてしまいます。これを聞いてその姿勢の違いに驚きました。

− そのように世界を仕事場にしていらっしゃる八木さんの子育てのモットーは何ですか?
 15才の娘と16才の息子がおりますが、子供の生長を見ることで私が逆に育てられていると思っています。又私は子供が小さい時から「きれいね」という言葉を言わないようにしていました。それは親の考えを押し付けてはいけないと思うからです。  出来るだけ世界を見るように進めていますし、家を開放をすることでいろいろな人との交流を計っています。
この9月から2人ともバンフ(アルバータ州)の近くの高校に親元を離れていくことになっています。

− ところで彫刻家のイサム・ノグチさんとも交流がおありだったとか?
 ええ。初めてお会いしたのは70年の初めですが、彼は当時日本でそれほど知られていませんでした。デザイン関係の仕事をしていた関係もあり、ヘンリー・ムアーなどのように教科書にも載っていませんし、また彼に対して日本ではある種の差別があって、国立の美術館では展覧会を開けなかったのです。当時日本、イタリア、NY間を行き来なさる生活を送っていらして、高松に滞在されて仕事をされていらした時に何回か伺いました。お会いして大変に偉大な人だとすぐにわかったのですが、あの有名な「あかり」のデザインの模型などを作るお手伝いをしたりしてました。今になってもっとお話しを伺いたいなと思うときにもうこの世にいらっしゃらないのをとても残念に思います。でもこの時NYに呼ばれたりイタリアに行ったりして、カルロス・カルパを紹介して下さいました。これが私の照明器具デザインへと繋がって行ったのです。

− 今後とも世界を舞台に公私とものご活躍をお祈りしております。
日系の声 Jun,1996




「Today's Japan」のゲスト・スピーカーとして来加した上野千鶴子東大教授


トロントの「現代日本芸術祭」
− この芸術祭には「東京・四畳半建築展」の催し物のためにいらしたのですね?
そうです。建築家と組んで仕事するなんてめったにないチャンスですから、プロデューサーの鈴木明さんに声を掛けていただいた時は大変喜びました。また山本理顕さんは前から知っていましたし、おたがいに情報交換していましたが、一緒に仕事をするのは初めてでした。個人的にとても楽しく参加しました。

− 全体的に見て芸術祭をどう思われましたか?
もちろん国際交流基金以外にカナダ側から莫大な寄付と協力があって実現したものでしょう。一見無駄と思われるこうしたカルチャー・アクティビティーにこれだけの規模と人が投入されたのを見てとても驚きました。
当然そこには層の厚いネットワークがあるわけで、トロントって素晴らしい所だと思いました。私もいろいろと人間のコンタクトができましたので、また戻って来る可能性が大いにあります。

− それは嬉しいですね。
それにトロントってとても都会だなと思うのは、例えばこの「4畳半建築展」などははっきり言ってしまえば経済と何も関係ないものです。一見分けの分からないプロジェクトであるにもかかわらず、あれだけの人がかかわっている。でもそういうことに夢中になれるのが「文化」というもので、それができるトロントというのは開けていると思いますよ。バンクーバーというのはそういった層は薄いですね。のんびりとしてとてもいい所ですが田舎です。

− エンジョイなさったほかの出し物は?
ダムタイプの[ph]を見る機会がありましたが、ものすごく面白くてちょっとショッキングなほどでした。今回の「Today's Japan」でとてもいいと思ったのは、いわゆるオリエンタリズムに陥って歌舞伎、能みたいなものだけが紹介されない点ですね。現代の日本のいろいろなものがミックスされていて、例えば「4畳半建築展」一つ取ってもものすごくバラエティーに富んでいます。あれだけの多様性を持ち込んだのはすごいことで、これは鈴木さんの見識とダイアン・ボス(ビジュアル・アート部門スペシャルプロジェクト・マネージャー)のプロデュサーとしての力だと思いますね。

− 夏にはバンクーバーのUBCアジア学部で2ヶ月ほど教鞭を取られ、その後国連の「第4回女性会議」(北京)に出席され、そしてトロント。いつも八面六臂のご活躍ですね。
ここにいる間もちょっとモントリオールとNYに行って来ました。でもカナダは女の一人旅が心配せずにできますので気分的にとても安心です。アメリカのセキュリティーの悪さが最近は特にひどいので辟易しています。


「監視」され非協力的だった北京の女性会議
− 北京での会議は如何でしたか?
私はNGOを始めとして幾つもの女性に関する会議に出ていますが、何処でも普通は主催国が暖かく迎えてくれ協力を惜しまないのです。でも今回の北京会議は何処に行っても「監視、監視」で、非協力的な敵対視しているような雰囲気が耐えられませんでした。あんなに気持ちの悪い会議は初めてです。

− それでも会議としては成功だったのですか?
とても変な話ですが、主催国の中国の人々を抜きにして隔離された場所でNGOの女性たちが盛り上がったのです。
普通は現地の人が全体の半分くらい参加して交流をはかるのです。ですから私たちもパンフレットを中国語に訳したり、ボランティアの通訳の人も伴って出かけたのですが、来ていた中国女性は英語がペラペラな超エリートばかりでした。普通の市民が来ることは許されなかったのです。

− 一番成果が上がったワークショップは?
全10日間に5000以上のワークショップがあったのですから全部に参加するなど不可能ですし、会議の全貌をつかむのは難しいことです。それに北京から会場の懷柔県まで50キロもありバスで1時間もかかります。会場も歩けば30分はかかる広大な地域なのに巡回バスもなく、資料や機材を持ち込んだアクティビストたちは重い荷物を持って会場内を右往左往。特に高齢者や身障者の女性たちは大変で、会場の建物にはエレベーターがないため会議への参加をあきらめなければならない状態でした。また仮設のテントは雨が降れば吹き込んで使い物にならず、ぬかるみに足元を取られ、プログラムに付いている地図は不正確といった状態でした。
また事務局も非効率的で、何処で何が行われているかとか、キャンセルや追加などの問い合わせに充分に答えられないのです。こんなに歓迎したくないのなら、なぜ国連女性会議をわざわざ北京に引っ張ってきたのだろうという声が沢山聞かれました。

− そんな中で日本女性の活躍は?
今回すごく嬉しかったのは、日本のNGOが育ったなということを目にしたことです。今まではとても評判が悪く、例えば85年のナイロビ会議の時などは浴衣を着て盆踊りして帰ってきただけとか、出席は多いのにワークショップでは全然しゃべらないとか、姿が見えないと言われたのです。
でも今回は日本女性によるワークショップが幾つもあり、また野外での即興パフォーマンスをしたりとても元気でした。これは今回の会議のために練習したのではなく、75年辺りから20年くらいの間に日本のローカルな女性のネットワークが根を張り経験を積み重ねて自信をつけた結果だろうと思います。

− 20年前からこうした女性会議にかかわって来られた上野さんとしてはこの変化は驚きでしょうね?
何もなかった頃から見てきたわけですから、女性は今とても層が厚くなって来たなと感じますし、素人がすごく元気ですよ。

− 主催地が北京ということで日本女性としては行きやすかったこともあるのでしょうか?
それは事実です。地理的に近いことに加え円高であることが多いに助けになりました。それにもう一つの理由は、80年代に各県各市に地域の女性センターが一杯できたのですが、そこが代表団を組織として会議に送るやり方をしたのです。例えば市が公募して年齢や職業の違う女性たちを5人なり10人なりを集めて勉強会をし、データを集めワークショップの準備をしたりして積み上げた上で会議に出席させるやりかたをしました。資金面でも個人では行けない女性が出席できるようになったわけです。
もちろんこれはポリティカル・コレクトで「女たちに金を使わにゃならん」みたいなところがあった結果でもあるのですが、それが北京会議に六千人も送る結果になったわけです。


主婦フェミニストたちが力を持ち始めた日本
− と言うことは日本の女性は更に大きく変わったということですか?
いろいろ程度の差はありますが、若い女性、ワーキングウーマンが変わったと同じように、家庭にいる女性も変わりました。私は彼女たちは決して保守的だとは思いません。北京会議でも主婦のサークルが沢山来ていて、その女性たちは平気で1週間も家を開けているのですよ。彼女たちはお金も自由もあり、夫たちに文句を言わせないし、ローカルな地域で生協や環境問題にかかわって一生懸命やっています。こうした活動的な女性が地方で「出るクギは打たれる」かといえば決してそうではなく、そのうちに引っ張られていつのまにか地方議員になっていたりするのです。立場や年齢を超えて、同時代の息吹を感じて生きる女性が多くなったということです。

− そんなふうに女性の変化が現れたのはいつ頃ですか?
80年代です。この10年間は大きかったですね。

− 上野さんは85年あたりには猛烈に働く日本の男性を「産業廃棄物」と呼んでいますね。その男たちが今は妻を応援しているということですか?
そうです。私は89年に「女援が世の中を変える」〔日本経済新聞社刊〕という本を出しました。ここに出てくる女性たちは、高学歴、高経済階層に属し、夫は雇用者、長時間労働者、比較的転勤の少ない階層の人々です。日本の性分業の構造と性別隔離が彼女たちの活動の温床になっていますが、今こうした女性が厚い層を作り活動しているのです。
これはアメリカのフェミニズムの動きとまったく違ったもので、私はこうした女性を「専業活動・主婦(フルタイム・アクティビスト・ハウスワイフ)」と呼び「主婦フェミニズム」と呼んでいます。でもこうしたアクティビストはアメリカの女性には理解できません。何故ならこちらでは「主婦」であることは、それ自体が後ろ向きなことですから。

− そうなるとこれは日本女性独特な流れですね?
そうです。そしてこれは日本の「夫婦カルチャー」のあり方にも根ざしています。特に日本の夫婦はお互いにやっていることには干渉しないのです。特に日本人の夫は妻のやっていることに「無関心、無干渉」であるわけで、それが彼女たちの活動を逆に助けています。これは考えてみれば逆女性差別の典型といえます。でもカルチャー・ヘリテージというのは、ある特定の関係に置かれたとき「良い面」と「悪い面」とがかならず出てくる分けですが、日本女性は自分の立場を逆手にとって与えられた環境の中で自分を活かす道を見つけたのです。ですからとてもしたたかでたくましい女性たちが多いわけです。

− でもそういう人たちはいわゆるフェミニストたちからはどう見られているのですか?
もちろんそういう人たちから批判されています。「あなたたちは企業文化に乗っかって砂上楼閣のような危ない基盤の上で自由を謳歌しているだけではないか」と言われます。そして「経済的自立が一番だ」と批判されます。でも私に言わせれば「So what!」と言い返したいですよ。
考えてみてください。今日本の4、50代の女性が一人で食べていける職なんて何処にありますか?彼女たちが仕事を続けられなかったのは、核家族で子育ての手助けがなかったとか、夫の転勤で移動ばかりしていたなど自分ではどうにもできない事情があったわけです。今になってそれを批判しても意味ないこと。それより今与えられた環境の中で自分を最大限に活かして生きていく方が重要です。

− 上野さんのイメージとちょっと違うような気がするのですが........。
そんなことないですよ。私は社会学者ですからとてもリアリストです。それに関西での生活が長いこともあって、人間は理想やイデオロギーだけでは生きて行けないことも良く知っています。ローカルの女性センターなどには、子育て真っ最中の女性がタコ壷から這い出るように出てきて、自分たちのスペースを作って行った歴史があり、20年の歳月をかけて今それが育っているわけで、そういう人たちがしっかりと根付いているのです。

− アメリカのフェミニズムとは大部違いますね?
アメリカの女性の状況を日本の女性は必ずしもいいなんて思っていません。それに第一ワークコンディションが日本とアメリカではすごく違います。日本の男性の仕事の状況は、私生活破壊で余りにもひどいためあんな生き方は羨ましくもないし、真似したくもないというのが日本女性たちの本音ですよ。

− ということは、男と肩を並べてやって行くことをあきらめたわけですか?
いいえそうとは言えないです。でもただメール・クローン(男の複製)にはなりたくないというのははっきりしていますね。それに今の男の子の中には中年男性のああした生き方を見て、母親のライフスタイルの方が魅力的だという子も多いのです。友達は多いし話題は豊富だし、アクティビストの幅が広いということで、できれば母親のような生き方を したというスポイルド・キッズが出てきました。日本の社会の中で持て余している子供たちですが、不況になってこうした子供たちが将来どうなって行くのかわかりませんが。

− 上野さんは人生を「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」とに分けておられます。ご自身「白秋」の時期に入られてご心境はいかがですか?
人間が年を取るのと、マチュアになるのとは何も関係ないのだなとしみじみとわかりました(笑)。私はもともと若さや美貌を売っていた人間ではないので「衰え」を受け入れるのは、そういうので勝負していた女性よりは楽ですね。また人は皆年を取るんだというそんな視点から見ても、アメリカのフェミニズムというのはとても違和感があります。
「Women can be powerful」「You can do it all」なんていうのを聞くと「ちょっと待ってよ」と思うのですよ。若さに任せて男と伍してやっていける若い時はいいけれど、そんなものは高々20年くらいのものです。女性の権利の主張のために、女にも男と同じことができると言い張るのなら、男のように体力的に強くなければならない訳です。でもそうなったら高齢者や障害者はどうなるのですか?そんな墓穴を掘るようなアメリカのフェミニズムにはとうていついていけません。衰えても自分の尊厳を守って生きていけるというような考え方ができなればおかしいのではないですか。

インタビューを終えて:
「フェミニスト」と聞けば一応闘争的でアグレッシブで......といったステレオタイプな人物を想像しがちだが、上野さんはまったくそうしたイメージからほど遠い。しかし無駄のない切れ味の良い話しぶりは小気味よく、日本の女性たちが自分たちに最も適した、より良い生き方を見つけるための手助けをしておられる様子が伺える。
ちょうど上野さんにお会いする前日、アメリカのフェミニスト、ナオミ・ウルフの講演を聴く機会があった。元気のいい彼女と、彼女を指示するこれもまた飛び切り元気のいいカナダ女性たちとのやり取りが頭に残っていたため、上野さんのおっしゃる日本と北米のフェミニズムの違いが実によく理解できた。
また「カルチャー・ヘリテージ」とは、置かれた環境の中に住む人々によって、おのずと生まれてくるものであるならば、日本人としてのアイデンティティを保ちながら、今この西欧社会に住む多くの日本女性たちも、歴史を重ねるとともに独特の流れ(カルチャー)を作っていることになる。
何を残し、何を切り捨てるかは個々の好みによるとしても、しっかりとこの地に足を踏まえ、そこから生まれる思いやつながりを育てながら生きていく大切さを改めて思い知ったのである。

(日系の声 March,1995)